9 アイデンティティ

ていいちOTP

   最近気になることがあります。それは新聞の投稿欄に「元○○」と過去の肩書が添えられていること。そして主に女性が希望している「男女別姓」論議です。この2つはどちらもアイデンティティに関わることです。
 アイデンティティとは如何にも人間的で面倒な概念です。少し本能的で俗物的な行動を人間的と表現することがありますが、それとは異なりこの「人間的」は霊長類のトップとして君臨している人間という意味です。
 アイデンティティは「自己同一性」と日本語に直されます。簡単にいえば長渕剛さんの唄の歌詞のように『おれは俺として…生きてゆきたい』という概念です。更に言えば世間に対して自分はこういう者だと主張したい気持ちを表す言葉です。しかしなんとなく肩が凝ってきそうな概念ではないでしょうか。

 私たちの日々の暮らしの中で何かしたいと思う気持ちや、こんな風でありたいと思うのは、つまるところ楽しく心安らかになりたいからです。それを『幸せ』とも表現しています。私たちは社会の中で暮らしているので世間とか「皆さん」のことが気に掛かり、何事でも皆さんに認めて貰いたいと考えるのですが、そのような社会的な権威が必ずしも深い安堵感をもたらすとは限りません。素直に自分の心に問うてみて心地よく安らかであれば、世間とは関係なく幸せであるに違いありません。

 我が家にはミミと名付けた猫がいます。猫については好きな人と嫌いな人が両極に分かれるそうです。幸い猫については好みが妻と一致しています。ミミは我が家の四代目の猫です。何処にでもいるトラ猫で地が薄黄色。こういうのをキジトラというらしいです。ミミは無邪気な表情で可愛いのです。いつも幸せそうに見えます。動物病院にお世話になるときに一応「おものミミちゃん」と名前を付けましたがミミちゃん自身には全然関わりがないことです。猫はいつも幸せに見えます。ついミミは私よりもずっと悟りが深いのかも知れないと考えてしまいます。
 「猫と人間を一緒にしてどうする」と叱られそうですが、事実ミミはとても幸せそうに日々過ごしています。犬や猫は脳が人間ほど高級じゃないから無邪気に見えるというのが科学的な真相ですが、すると脳が複雑で優秀なほど苦労が多い暮らしになるのでしょうか。意外にそうかもしれません。

 過去の肩書を見ると皆さんはひと時過去に思いを馳せてくれますが、すぐに今では殆ど意味をもたないことに気付きます。肩書がなくても幸せに心地よい日々を送ることは全然難しくありません。

 男女別姓論議については男の側にも女の側にも誤解があると思います。私は結婚しても夫と妻が別の姓のままというのは違和感を禁じ得ません。しかし或いはただ慣れの問題だけかも知れません。昔、職場で男女別姓が話題になった時
「どうして結婚するときに姓に拘るんだろうなぁ」と発言したことがあります。すぐさまある女性から
「あら、じゃぁあなたはどうなんですか?」と言われました。お前は結婚するとき姓を変えるのは嫌だろうという意味でした。私は
「姓を変えてもまっ〜たく構いません!」と答えました。その女性は肩透かしをくらったように
「そうですか…それならそう言う権利がありますね」といいました。

 私の姓は新発田には少なく医院や市役所などで頻繁に別の似た名前を呼ばれます。確認の為一応訂正するのですが嫌な気分になったことはありません。姓に拘りを持っていないからです。名は親の気持ちが託されてはいるけれど、姓は一義的には個人を特定するためのものです。
 婚姻を届ける際に姓を選択するのですから民法の改正を待たずとも結婚に際して女性の姓で新戸籍を作ることができます。それなのにどうして圧倒的に男の姓を選択するのでしょう。そこに別姓論議が持ち上がってくる本質的な理由があります。
 妻に、結婚で姓が変わることをどう思っていたのか尋ねたことがあります。すると
「結婚するというのはそういうものだと思ってたので何も考えなかった」というのです。しかし本当は決して『そういうもの』ではありません。過日息子が横浜で地元の人と結婚しましたが御両親は嫁にやる辛さが深く、それを隠しきれない様子でした。私はどちらの姓を名乗るかが結婚の妨げになるなら結婚して彼女の姓になってもよいと常々考えていました。
 確かに男性も女性も姓が変わると当初は面倒が生じます。職業を持っていると尚のことです。過去には結婚で専業主婦になる人が多く、男性が姓を変えない方が後の面倒が少なかったのでしょう。それでも姓が変わることを寂しく感じた女性もいたに違いありません。逆に姓が変わることで結婚したという実感と嬉しさを思う人もいたかも知れません。

 近年は事情が違います。女性も職業を持つ人がどんどん多くなっています。だから姓を変えた結婚当初の実務的な煩わしさはアイデンティティも絡んで男性も女性も同じです。だから相談してどちらの姓にするか決めればいいのです。女性の姓になると婿になったと思われるというのは誤解です。男性の姓になっても女性は相手の親と養子縁組をしません。あくまで選択された姓で新たな戸籍が作られるに過ぎません。それに婿とか嫁という表現は封建社会の侍階級の臭いのする『家』を重視する言葉です。

 ではどうして結婚に際して女性の姓を選ぶ人が増えないのでしょう。日本の社会では、ただ長年そうしてきたからとか家同士の結婚だからとかいう現在では殆ど実体の薄れた金縛りの想念に囚われているからです。そんな理由で結婚に際して女性の姓を名乗る新家庭が増えないのです。
 そういう訳で結婚しても姓を変えなければよいという男女別姓論が浮上したのでしょう。
 でも周囲の抵抗が大きいというなら、きっと男女別姓を選択する際にも親や親類縁者の抵抗があるに違いありません。それを撥ね退けるには現民法のもとで女性の姓を選択するのと変わらないエネルギーが必要になると予想できます。

 まずは親をはじめとして『皆さん』が旧来のことに囚われず『個人』が幸せで心安らかになる方途を考えるべきです。女性の姓を名乗って結婚する人たちが増えるような精神風土を形作ってゆくことが重要です。もし女性の姓を選択する結婚が半分近くもあれば男女別姓論を主張する必要はなくなるでしょう。
 長渕剛の歌が聞こえる『…俺は俺として…』。アイデンティティって…幸せを妨げるものであってはいけません。
 そう考えれば結婚式場の○○家△△家というのも伝統というより旧弊に近いと思います。そもそも明治以前は現在の庶民に相当する人々には苗字(姓)がなかったのです。私は『お嫁さん』と親しみと喜びを込めて心に思うのですが『嫁』という概念には封建的な臭いを感じます。庶民は『おおむかし』の侍階級の真似などする必要はありません。
 
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