7 機械への憧れ

ていいちOTP

   長い年月を経ると遠い過去の経験は次第に記憶から薄れてゆきます。しかし時折何かのきっかけで何十年も思い出さなかったことが断片的に記憶に蘇ることがあり、よく覚えていたものだと驚きます。特に少年の頃は雑多な些事に関わることがないためか比較的多くのことが記憶に残っているのかも知れません。また少年時代は子供なりに辛く悲しいこともある半面、大人には感動できないようなありふれたことも強く心に刻まれる場合があります。

 私たちは永い年月を振り返る時、できればそれまでの人生を肯定したいと感じます。社会的観点からは自分一人など殆ど存在意義がないほど小さいのですが、個人にとって社会は殆ど自分を中心に据えて考えます。ですから自分の来し方に疑問符を付けることは人生を否定するかのように感じるのです。
 戦後10年ほどの頃、小学3・4年生で、私はモノの内部に強い興味を持ち始めました。家にある機械の中を次々と覗いてみたいと思いました。体力が劣っていて野外で駆け回ることが苦手だったことも大きな理由だと思います。
 時計がどうして動き続けるのか?ラジオの中から音が聞こえてくるが中身はどうなっているのか?機械の中を見れば分かると考えました。スポーツには全く興味がありませんでした。私は大人の目からみるとちょっと心配な普通でない子供だったに違いありません。

 ある時、ふと家にあるラジオの中を裏側から覗くと赤く光っているモノが見えました。それは真空管でしたが、その時は名前を知りませんでした。丸くて美しくカーブを描いているガラスを通して内部に金属が見えます。細い数本の柱を取り巻くように灰色の光沢のない金属が壁を作っています。壁の内部から赤い光が洩れ出ていました。ラジオの仕組など何も知りませんでした。ただ表面のガラスの曲線が美しかったのです。中の灰色の金属の内側は見えません。赤く光っている部分には何があるのだろう。私はワクワクした気持ちになりました。

 その後、随分月日が経ったある日、真空管の内部を覗くチャンスがありました。故障した真空管が捨てられることになったのです。湧き上がってくる興奮を抑えきれないまま、真空管を握りしめガラスを石で叩きました。ガラスが割れ電極が剥き出しになりました。指で灰色の金属の壁に触れました。あとで知ったのですが、プレートという名の電極です。もっと柔らかいものと想像していたのですが意外と固くしっかり組み付けられています。上部から覗くと髪の毛ほどの細い金属線が数ミリほどの間隔で横糸だけの網のような具合で沢山並んでいます。中心に2ミリほどの太さの柱があります。あとは何もありません。

 その真空管はガラス天面の内部に、ある種の金属が蒸着されていましたのでガラスを割らなければ電極の上面から覗くことができず、もっと複雑なものが詰まっていると期待していましたので、少し意外に感じたのでした。その時プレートの内側に見たものは、カソード・グリッドという電極だとあとになって知りました。

 中学生の頃はゲルマニュームラジオで遊びました。これは同調回路と検波回路だけで増幅回路がありません。子供相手の模型屋さんで幾度か買いました。当時500円前後しました。自分で部品を買ってきて組み立てたこともあります。部品が少なく同調コイル、検波用のゲルマニュームと小さな抵抗器、コンデンサです。本来はバリコンも要るのですがコイルの内部でフェライトコアを前後することでバリコンを省略していました。増幅しないままの弱い電波を検波して耳に聞こえる音にするので微弱な信号でも聞こえるクリスタルイヤホーンを使いました。耳にピッタリ差し込んで使うイヤホーンで澄んだきれいな音を楽しむことができました。
 そんな単純な構造のラジオですが友達同士で聴き比べると性能に僅かな違いがありました。恐らく部品どうしの相性やゲルマニューム検波器の性能にも僅かな違いがあったのでしょう。回路はどれも同じですがラジオ本体のデザインが数多くあり、同級生が持っていた卓上ラジオを縮小したような意匠が羨ましかったのを覚えています。それは心なしか他のものよりもよく聞こえた。

 高校生になってトランジスタラジオを作りましたが回路図どおり部品を集めて仕上げてもなかなか思ったような性能が出ません。トランジスタのような半導体は熱に弱く半田付けをする時に熱を逃がす工夫をするのですが、旨くいかずつい熱を加えてしまったのかも知れません。私はメーカー製のラジオのように性能が出ないのが不思議で何度も挑戦しました。
 高校3年生の頃、同級生が「初歩のラジオ」という雑誌を教室へ持ってきていました。そこには真空管を使った受信機の回路が幾つも紹介されていました。
 記事の中では当時家庭で使われていた高級な『五球スーパー』もありました。私はすぐに魅かれました。それまで組み立てたことがない真空管を使ったラジオを作りたいと思いました。遠方の部品店へ出かけてアルミシャーシ、真空管、ソケット、コイル、コンデンサ、抵抗器、電源トランス、その他を雑誌の回路図どおりに買ってきました。
 組み立ては真空管などを取り付けるためシャーシに各種の穴を開けることから始めます。逸る気持ちを抑えながら慎重に作業を進めました。時間を掛けて穴を開け終えると、そこへ真空管ソケットを取り付け、バリコンを取り付けました。そして抵抗やコンデンサなどの小さな部品を半田付けしていきました。作業を進めているとしだいに他のことが意識から抜け落ちたようになりラジオに没頭しました。夕刻から半田付けを始めると朝まで眠らず夢心地になって没頭することが幾度もありました。

 回路の組み立てが完成すると緊張と不安と自信が混然となって胸のときめきが耐え難いほどになります。しかしまだスイッチを入れません。回路図通りに組み立てられたかどうかマニュアルと見比べながら点検します。点検する度に回路図に点検済みのチェックを入れます。
 全部大丈夫と確信できると、いよいよ電源を入れます。回路に電流が流れスピーカーから音が出るハズです。期待と恐れが交錯するなか電源スイッチをそっと入れます。スピーカーから微かにブーンというハムの音が出ます。バリコンを回して同調をとると音楽や人の言葉が流れてきます。そうなるとやっと長い緊張から解放されます。そして同時に心のときめきは急速に浅くなり、眠気が襲ってくるのでした。私は闇の中に引きずり込まれるように意識が遠のきました。
 真空管式のラジオは回路図どおり作れば殆ど間違いなく成功します。実体配線図という具体的な絵で説明されたページがありトランジスタのように微妙な失敗がありません。私は幾つものラジオを作りました。だが幾度やっても性能的に市販の五球スーパーに敵いませんでした。結局メーカー製ですと抵抗やコンデンサといった部品の規格が汎用品よりも厳格なのだろうと理解していました。

 高校時代はこうして勉強以外のものに心を奪われていて学校の成績が良くありませんでした。通学していたのは私立の男子高校で現在では国立大学や医学部にも合格者を出していますが、半世紀ほど昔は成績が公立に劣る者が多かったのです。先生たちは生徒の進学実績を上げることを最も重視していました。そして最も勉強の妨げになるものは異性への興味であると認識していました。先生たちは一様に生徒が女子に興味を持つことを非常に困ることと考えていました。女子に興味を持つと勉強に力が入らなくなるという認識です。 担任教師は
 「まだまだ世の中は学歴がものを言っている。君たちが今女子に興味を持ってもよいことは一つもない。女子に興味を持つなどは大学を卒業した青年のやることだ。」
 勉強に集中しなければならないと考える生徒はそんなお説教を尤もな話だと納得していました。思春期に当然湧き上がってくる健康な欲望をスポーツで紛らわせていました。スポーツものめり込めば当然勉強の妨げになり得ますが、それには触れませんでした。
 合理的性を欠いた不自然な青春を奨励されましたが、私のようにスポーツ以外に興味を持っていた者には影響がありませんでした。学校としては勉強に没頭することを期待していましたが、あらぬ方面に興味を抱くよりはマシだと考えていたに違いありません。何であれ我を忘れて没頭できるものを持っているのは悪くはないと認識していたのかも知れない。 
 私は勉強しなかったことをそれ程後悔していません。でも遠い青春の頃、本当に満たされていたろうか。そうではなく別のものを無意識のうちに抑圧していたのではなかったのかと考えることもあります。

 小学生の頃から独りで機械ものを相手に楽しんできた私は人間関係を築く能力に乏しかったのです。男子だけの学校では体の奥底から湧き上がってくる健康な衝動のままに行動しないでいることは比較的簡単です。しかし大学生になると世界が一変しました。キャンバスで目にする女子学生がひどく眩しく感じました。それまでなにも経験しないまま大学に入った私は女子へ声を掛けることすらできませんでした。女子に近付きたい気持ちと酷く緊張してしまう自分に戸惑うばかりでした。それは強い情緒的な痛みだったのです。そして女性に神聖な思いを抱きながら学生時代を過ごしました。

 私が現在まで趣味の一つにしてきた車への興味は学生時代のアルバイトが大きく影響しています。数多くのアルバイトをしましたが、なかでも以後の生活に大きく影響したのは運転手の仕事です。
 阪急電車の南方駅近くに零細の運送会社がありました。狭く古いアパートの一室を事務所にしていました。トラックは7・8台、マツダやダイハツの三輪トラックが半数以上で、運送業に使用できる営業ナンバーを付けているのは半数以下でした。他のトラックは白ナンバーの違法営業でした。この会社にマツダのE2000という4輪ロングボディトラックがありました。未だ自家用車を所有している家庭など限られている時代で、それまで車を運転したことは殆どありませんでした。初めてE2000の運転席に座ると荷台の端が霞んで見えるほどに感じました。
 当時身近に乗れる自動車がない車好きの学生にとって少しでもボディの長いトラックを運転できることは自慢できることでした。E2000ロングボディは荷台が長く広いため積み荷のあげおろしが辛いのが困りものでした。私はこの長尺のボディのトラックで車が徐々に増えつつある大阪の街を走りました。
 トラックに積み荷を載せるとルームミラーは荷物が邪魔になって意味のないものになることを初めて知りました。しかし慣れると両側にあるバックミラーを使ってバックさせる方が却って正確にできるのです。体をほぼ正面に向けたまま運転するため周囲のスペースを判断し易いからです。この経験がありましたので、後に大型免許を比較的楽に取ることができました。しかし大型免許は現在まで役に立ったことがありません。
 運送会社のアルバイトでは運転だけでなく他のことも学びました。
 ある日、住宅団地の建設現場へ建設用品を運搬しました。その日私は助手席でした。現場で資材の積み荷を降ろすと、その場にいた男が運転手に小さな声で話すのが聞こえました。
「あれを△△袋、大阪の○○へ運んでくれへんか。」現場にあるセメント袋を何十袋も別の場所へ移動するように依頼しているのでした。当時セメント一袋は50キロ詰めでした。その男はセメント袋が見えないようにシートを掛けてくれとも云いました。本来建設するアパートに使うべきセメントをくすねていたのです。当時そのような不正は特異なことではなかったかもしれません。
 トラックの仕事は一月ほどやりました。あまりに疲れるのでそれ以上は体がもたなかったのです。この仕事はラジオの趣味と同様、人生に大きく影響しました。

 社会人になって数年後、軽自動車を購入しました。モータリゼーションの黎明期に突出したエンジン出力を持つその車はオートバイ用の空冷エンジンで酷い騒音でした。しかし初めて所有したこの「車」はそれ以後の趣味の世界を大きく広げてくれたのです。
 私は機械が好きだったので車を難しいものとは考えませんでした。黎明期の車は現在のようにメンテナンスフリー化が進んでいませんでした。
 車は要所ごとの部品を定期的に交換する必要がありました。そうした部品交換を趣味として楽しんできました。しかし趣味であっても整備の経験が足りません。それでも慎重に時間を掛けて適切な工具を使えば、かなりの作業までできます。工具や設備がなければ整備を生業とする人でも手が出せません。私にはドライブと車の整備をするのが大きな趣味になりました。

 ところで私たち個人のユーザーは部品の定期交換など、かなりの修理までDIYできても定期点検や車検の時期がやってくると、どうしても整備工場へ持ち込まなければならないと思い込んでいます。定期点検や車検に関する書類が整備工場にしかなく、個人で手に入れられなかったからです。しかし昭和58年頃、そうした一般の常識が事実でなく、ただの無知であり思い込みだったと知ることになります。

 それを知ったのは、昭和58年1月に出版された『車検で5万円トクする法』という本でした。現在では「ユーザー車検」は完全に市民権を得ていますが当時は車を趣味にしている者ばかりでなく少しでも車検に関心のある人たちにとって、車検に対する認識が180度ひっくり返る知識でした。
 ユーザー車検が広がり始めた時期、各社のディーラーをはじめ数多くの整備工場は酷く肝を冷やしたに違いありません。この書籍が出版されたあと、車を直接車検場へ持ち込んで車検を更新する人が増加し続け現在では特別なことでなくなっています。私も39歳の時から車検を整備工場へ依頼したことはありません。道路運送車両法には、車検は使用者が受検すると明記されています。

 平成17年の春、私はリタイヤしました。趣味は車の整備・パソコン遊び・来し方の思い出作文・ハイキング・美術館を訪ねること・本を読むこと・知らない街へ車を走らせること・その他です。
 振り返ってみると物心ついた時からモノを相手にするのが好きでした。小心で度胸がなくネクラでした。いわば多方面についてのオタクです。その為、人間関係において想いを果たすことが叶わなかった経験が数知れません。半面、度胸がないので一か八かの勝負には手を出せませんでしたが、お陰で大きな賭けに出ることもなく、致命的な失敗もなく年月を過ごしてきました。しかし今では少しくらい冒険があってもよかったのではないかという思いもあり、これでよかったのだろうかと振り返ることもあります。 
  
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