私は戦後と同い年です。物心ついた頃は日本が未曽有の犠牲の挙句、敗戦の憂き目を見てから数年の頃で、現在では想像もできない徹底的に物が不足した時代でした。それは衣・食・住にわたっていました。食べるものは酷く粗末で栄養のバランスなんて二の次三の次、大人たちは主食として芋・麦・コメを日々獲得する努力をしていたと思います。
 そんな時代に時折町外れの知人がおいでになり手土産を下さることがありました。大人たちが手土産の箱の蓋をそっと恭しく開けると其処には籾殻がぎっしり詰まっています。祖母が嬉しそうに籾殻の中へ手を突っ込みます。そして真っ白い卵を取り出すのです。籾殻を弄りながら幾つかの白い卵を取り出し、もう無いと思われても念のために隅を探って更にもう一個を見付けた時は皆が一層嬉しくなりました。卵はスーパーの販促商品にされる現在では想像できない程のご馳走でした。

 高校生の頃、映画館で観たハリウッド映画の中で中年の婦人が夫に「お金がもう無いのよ…」と悲しそうに口にしたときはびっくりしました。如何にも貧しくなって困ったという顔付ですが、その台詞と画面から受ける印象がちぐはぐで信じられませんでした。立派な家具調度が並んだ部屋、夫婦の衣類も立派です。その時代の日本と比べれば憧れの暮らしをしている夫婦なのに「お金がない」なんて。今は日本でも似たような会話が有りそうですが。

 三つ子の魂百までといいますが、そんな時代から始まった人生ですから卵はご馳走だという思い込みを解消できません。なので他の物をつい卵と比べてしまい、これなら卵が○○パック買えると数えてしまうのです。販促品なら一パック百円余りですから同じ値段なら卵10個の栄養に敵う食材はほぼありません。
妻にそんな話をすると即座に「そんな大昔と比べて、情けないこと言わないで!」と叱られました。勿論卵だけでは不足する栄養の豊富な食材が沢山あるので妻には反論しません。ですがテレビなどで若い女性向けに?紹介されるケーキの類には、その値段に仰天し『卵が○○パックも買える…』と、どうしても考えてしまうのです。
 ただ数年前にある鶏舎が紹介される番組があり生身の鶏が狭い鶏舎に詰め込まれ殆ど身動きできない環境で採卵器として扱われているの知ってから複雑な思いに捉われています。

 少し話が飛びますが人が経験したことは値観に反映されます。私たちにとって自分が嫌だと思うこと、これは譲れないと思うこと、これなら満足できるということは何か、その基準は少年の頃の環境が影響します。価値観は年月を経れば変化することがありますが最も大切なことは自分の心を素直に見詰めることだと思います。どんな選択で幸せな気持ちになれるかが大切です。でも選択に際して、どちらが格好いいかってことを基準にする場合があります。格好いいかどうかという基準は自分の心でなく他人の心を見つめています。
 他人の心を基準に行動するよりも、やはり自分の心を基準にしたほうが例え旨くいかなくても後悔しないでしょう。そんな風に考えると、物の価値を昔の貧しい時代と比べてしまうのは、例えアナクロニズムでも、認められるのじゃないかと思います。

人それぞれ社会的立場がありますから自分の行動を決める際に周囲の人にどう思われるかも考慮しないわけにいきませんが、それでも可能な限り素直に自分の心と向き合ったほうが幸せに違いありません。
 残念なのは他人の意見のままに行動し、旨くいかなかった時「あの人があんなことを言ったから…」と他人のせいにすることです。

 音楽や美術など芸術も自分の心に向き合わなければ心地よい雰囲気に浸ることができない分野です。自分の心に響かない音楽や美術はむしろ苦痛でしかありません。心地よい音楽や美術作品を鑑賞するひと時は幸せな気持ちになります。
 ところが芸術に向き合う時でさえ自分以外の人の考えを基準にしてしまう時があります。例年行われる絵画展では入賞作品にその表示がついています。楽しく絵画展を鑑賞している時、入賞の表示の付いた絵があると他よりもじっくり観ようと思ってしまいます。
 あまりピンとこない作品の場合、自分の感性が低いのだろうかと考えたりもします。音楽でも例えば有名な作曲家の有名な曲がピンとこない場合、同じように感じることがあります。でも自分の心に素直に問いかけ、楽しくなる絵画作品こそ価値のあるものです。音楽も自分の心の琴線に触れる作品こそ自分にとって価値ある本物であるに違いありません。

  心のままに形作られる価値観はその人の年代によっては或いは独善や居直りになるかも知れません。しかし人それぞれが心に素直に向き合うなら人の数だけ価値観があることを知り自分の価値観を基に人の価値観を裁かないよう留意したいものです。


 

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67 心を見つめて
67 心を見つめて

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