ていいちOTP

5_危険なことってどこに
   昨日かなり長編のドラマを観ました。DVDプレーヤーにデジタル録画しておいた作品で、いわゆる刑事ものです。竹内結子さんがノンキャリアにも拘らず実力でのし上がってきた警部補を演じています。ベストセラー小説のドラマ化だというだけありCMを含んで2時間10分の長さでありますがテンポよくストーリーが進んで飽きさせません。
 でも私にはどうしても気になることが幾つかありました。描かれているシーンの幾つかにはどうしても無理があると感じました。ドラマだから気にしなくてもいいと言われれば、そうかも知れず恐らくは杞憂に過ぎないのでしょう。しかし気になりました。
 軽く気になるところでは主演の竹内結子さんが美人過ぎて現実味が感じられません。美人の警部補がいないと断言はできませんが職務中の警察官がロングの髪を束ねもしないで幾度も掻き上げるということは無さそうです。しかしそんなことを指摘するのは無粋で、主演の女優さんを楽しめばいいのかも知れません。だがもっと重く考えざるを得ないシーンもありました。


 流石に刑事ものドラマで描かれる人殺しが〈殺人ショー〉であるというのは誰にでも理解でき、中身が絵空事だと分るのですが、ドラマの終末で主演の竹内結子さんが、実は犯罪の黒幕だった同僚の若いキャリア警部補に幾度も腹部を蹴られるシーンは具体性があり、とても気になりました。男に腹部を幾度も力一杯蹴られたあと、竹内結子さんの警部補は大したダメージも見せずに次のシーンを演じています。女性が実際にそんな目に遭えば内臓に重い損傷を受けるに違いありません。すぐに起き上がれるとは思えません。
 小難しいことを考えずドラマを楽しめばいいのですが、近年日本でも将来を担うべき少年が人の痛みを思い遣ることなく犯す残酷な事件を思うと、つい気になるのです。少年がテレビで目の当たりにするシーンを現実のものと誤解しているかも知れないと思うからです。
 勿論テレビドラマや映画だけが少年たちに悪影響を与えているのではありません。むしろドラマや映画は元々楽しむために作られた[作品]ですから、好き嫌いは別として良し悪しの評価には馴染まない別次元のものといってよいでしょう。少年が人の痛みを思い遣れないのは社会的な環境にその主な原因があると思います。


 私たちが子供の頃は空き地で遊んだり川で泳いだりするのはごく普通のことでした。ある時期アルミ製の鉛筆キャップにセルロイドを詰め込んでガソリンを入れたコップの上に置いて火を付け、キャップをロケットのように飛ばして遊びました。キャップが飛び出したあと火を消そうとして息を吹きかけたことがありました。すると火が大きく燃え上がって髪の毛を焦がしたのでした。そんな経験から、ガソリンに空気を吹きかけるとどうなるかを学習したのです。同時にその理由も考えて他の危険回避にも応用できたと思います。


 現在は何処でも〔遊泳禁止〕とか〔立ち入り禁止〕というような〔○○禁止〕が多過ぎます。物不足の時代に幼児期を過ごした者には心躍った公園の箱ブランコも使用禁止になったり撤去されたりしています。
 遊具で子供が怪我をする事例がメディアで報道され、怪我を防止する配慮が足りないのはけしからんと評論されます。親の指導や注意が足りないことを指摘することは殆どありません。メディアでは視聴者に嫌われるとスポンサーが逃げるので迎合しておく方が無難だからです。そうした態度は学校にも影響が及んでいます。 教師が保護者とトラブルになると殆ど学校側が譲歩します。校長も教育委員会も保護者とのトラブルを避けたがります。そんな風潮が一方的に文句だけいう保護者が徐々に増えてきた大きな原因に違いありません。


 何処かで事故が起こると、保護者の注意が足りないのが主な理由だと思われる事例でも施設や場所の管理者の責任問題に発展します。そうなれば管理者は面倒を避けるために当該遊具を撤去します。最近は都会では空き地など殆どありませんが地方都市では残っていることがあります。しかし現在では立ち入り禁止と表示されています。張られた綱を越えるのは簡単なのですが、それが禁止のポーズになっています。例えば地面に落ちているモノで怪我をした時、責任がないことを主張できるからです。
 そういう社会の風潮が長く続き、それが常識のようになった頃から子供たちはほんの小さな危険にも出遭うことなく日々過ごすことになりました。そんな歪な環境で成長した人は殆ど痛い目(皮膚感覚的な)に遭ったことがありません。
 どんなとき危険で痛い目に遭うのか経験できないまま大人になります。 例えば子供同士で喧嘩になったとき、昔なら手加減があったと思います。成長の過程で沢山痛い目に遭った経験があれば、ドラマのように相手の腹部を力任せに蹴ることなどできません。それは殺意があるか、或いは相手が死んでも構わないという気持ちがある場合の行為なのです。


 人間の生活環境にはどうしても危険が存在します。ある程度の危険を経験しながら生活することで身を守る術を学習するのであり、他人の痛みに思いを馳せることができる人になると思います。人の痛みが分らなければ『残酷』の意味も分りません。そして痛みが理解できれば心の痛みにも思いを馳せることができるのではないでしょうか。
 私たちは事故が起こったとき自分の不手際も真摯に反省した上で他への責任を考えるようにしたいものです。自分の責任と社会のそれを過不足なく考えなければ社会全体が歪になり、結局私たちみんなが暮らし難い社会になるでしょう。
 子供たちにどうすれば危険を避けることができるかを教えられる社会であって欲しいのです。子供が生活環境に当然存在する危険を知ることができ、危険回避の術を学習しながら大人になれる社会が普通の社会です。
  
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5_危険なことってどこに
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