57 ゆく年想って

ていいちOTP

 H26,12,30記)

2014年もあと1日で新しい年を迎えます。明日は大晦日です。もうこの年になると行く年の感慨も来る年への期待もさほど大きなものではありません。ただ静かにこの1年の思い出を辿り、楽しかったことやちょっと辛かったことなどを心の底で反芻します。

 年月を経る毎に来る年への期待が小さくなっていくように感じます。もう数え切れないほど新しい年を迎えたので、期待をしてもしなくてもあまり違いがないことを何度も経験しているわけです。これはヘソ曲りの感覚ではなく新しい年が平和で普通の年でさえあればそれで十分なのだと、良い意味で諦観しているのだと思います。

 ところで年の瀬になるとどうにも理解できない社会現象があって、そのため例年困惑するのです。それは30日と31日の夕刻から始まる歌謡番組です。テレビ番組ですから嫌なら観なければいいのですが何となくあの歌謡番組こそが日本人の1年の締め括りであるかのような雰囲気を醸していて妻は正月準備に腕をふるったあとホッコリしてあの歌謡番組を観るというパターンになっています。

 30日の民放の〈レコード大賞〉、31日のNHKの〈紅白歌合戦〉はもうだいぶ前から放送時間が長くなりました。妻が観ているので隣の部屋でオタクっぽく過ごしているのですが、ときにテレビの前に行くと出演している歌手が精いっぱい情熱的に、まさしく熱唱しています。歌手に交じって応援のタレントなどもステージに登場し声をかぎりに演じています。まるで舞台全体が躍動しているかのようなエネルギーに満ち溢れています。パフォーマンスとしては素晴らしく、1年の締め括りにピッタリのイベントのように見えなくもありません。しかしほんの少し引いて客観視すると、あのエネルギーに満ちた雰囲気がとんでもなくシンドイことに気付きます。
 昔はそんな変に冷静な自分はつまらない覚めた人間で、だからモテなかったなどと考えることもありましたが、よく考えるとそうではないように思えるのです。

 数時間もの間、様々な個性をもつ歌手が次々登場してエネルギーに満ち溢れたパフォーマンスで熱唱する映像はかけがえのないものにも見えます。しかし誰にも好きな歌、好きなジャンル、好きな歌手がいると思うのです。自分の好きな歌手が好きな歌を聴かせてくれるのは素晴らしいのですが、何時間もの間のべつ幕無しに大勢の歌手の《熱唱》を聴くというのはどうしても理解できません。

 あれ程のパフォーマンスを次々と観ていれば行く年を思い返すことなど不可能です。それなのに紅白歌合戦が終了して暫くすると、もう何処かの寺院の鐘がいかにも荘厳に鳴り響きます。ほんの少し前まで熱唱に酔っていたにも拘らずコロッと荘厳な鐘の音に耳を傾けるのです。テレビ局も視聴者もそのあまりにも大きな落差に違和感を抱かないのでしょうか。そう考えるとなんだか笑ってしまいバカバカしい気持ちにもなるのです。

 一年の間にはお正月から始まる数々のエポックがあります。社会一般のものから個人の誕生日まであり、それらのエポックを踏みながら月日を過ごしてゆくと貴重な思い出が積み重なりますのでとても意義深いと思います。2年前に孫が誕生してからはそれまでの態度を自分なりに改め、エポックを素敵な経験だと考えるようになりました。

 〈レコード大賞〉や〈紅白歌合戦〉も或いは新年へ向かうエポックイベントなのでしょうか。何時間も続く熱唱に感情移入しながら新年へのカウントダウンイベントに参加しているのでしょうか。行く年の記憶など良いことも悪しきこともすっかりと忘れ去り、来る年に全幅の期待をかけて迎えようというのでしょうか。しかしそれはまるで酒に酔い痴れることによって苦い記憶を思わず過去を無かったことにして新しい世界に期待するようなものです。それに来る年だって例年これまでの1年とあまり変わらない時間が流れていたのです。

 こんな風に如何にも斜に構えるのは、本当は歌謡曲に酔えず、つまりは好きじゃないからかも知れません。言い換えればもっと静かに来る年を迎えたいのです。静かに過ぎ去りゆく1年の記憶を辿りたいのです。それならただ音楽の好みが合わないだけにも見えます。でもそれぞれテーマが異なる曲が個性豊かな歌手によって次々と熱唱される歌に耳を傾け続けるというのは信じられないのです。そんな聴き方では曲のテーマや歌手の個性を深く噛みしめる時間がないと思えるからです。
 『そんなに深刻に考えなくてもいいじゃないか!軽く楽しく過ごせばいいんだよ!』って言われそうですね。でももしそうなら音楽を作った人、演奏している人、歌っている人は如何にも報われず虚しいだろうと思えるのです。

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57 ゆく年想って
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