56 ハイスクール

ていいちOTP

 (文芸しばた 投稿)

高校の入学式の日、式場へ入る前、グランドに待機していた。未だ風が温んではいない。和樹は不安と緊張で頬が一層冷たかった。中学の級友の母親は誰にともなく言った。
「親はみな泣いてるわ…」和樹はその言葉を、公立に入学できなかった子供の不甲斐なさを口にしたのだと思った。それが劣等感に刺さった。それは経済的負担を嘆いているものだったが気付かなかった。母はいなかった。和樹の母は小学校以来、入学式も卒業式も列席したことはない。

 東山の麓にあるH高校へは2次募集で入学した。公立を不合格になって焦った。公立の合格発表からH高校の2次試験まで1週間足らずしかなかった。和樹は一計を案じた。H高校は丸刈りを強制している。面接の際、既に丸刈りにしていれば有利になるかもしれない。母は物置の片隅で埃を被り錆も出ているバリカンを探し出し和樹の頭を刈った。ぎこちなく頭をなぞるバリカンの錆びた金属音が悲壮で滑稽だった。母がバリカンを握る度にチクチクと傷んだ。虎刈りの坊主頭になった時、兄が帰ってきた。
「なんや、お前、ますます子供っぽうなってしもたやないか。そんなことして、また合格せえへんかったらどうすんにゃ」

 入試当日、筆記試験のあと、面接官は和樹を見て驚いたように願書の写真と見比べた。そして念を押した。
「もし合格したら、3年間そのままの頭でいられますね」3年間坊主頭でいることについてすべての受験生に念を押しているのだった。
 合格発表の掲示に自分の名前を見つけた時、和樹は不安な気持ちから一応解放されたが公立を落ちた寂しさが異物のように体の中で重かった。
 H高校は東山の麓にあり、静かで森がすぐ近くまで迫っていた。教師たちは異口同音に言った。
「本校の教育環境は申し分ない。近くに名所旧跡もいっぱいある。君たちは本校に入学してよかったよ」
 和樹にはその言葉が空々しいものに思えた。和樹の家からH高校までは市電を乗り継がなければならない。徒歩で通学できる公立高校を思えば、市電で東山の麓まで行くのは屈辱でもあった。

 1年の担任はあの面接官だった。50過ぎの僧侶で優しかった。4月下旬のこと、その時期としては暖かい風が吹く日でクラスの雰囲気が浮かれていた。和樹たちは教師の話を聞かず騒がしかった。すると3時間目が終ると同時に廊下で待機していた担任が飛び込んできた。そして大声で真っ赤な顔をして言った。
「みんな、席に座れ!」いつもの穏やかな表情ではない。担任は大声で更に赤くなった。
「先生方は一生懸命に君たちに教えようと頑張っておられる。…君たちは、そんな先生の熱意を裏切るような態度をとってはいかん」
 彼は真っ赤な顔で叱り続けた。しかし感情に任せて怒っているようには見えなかった。担任と入れ違いに教室に入ってきた4時間目の教師は静かに穏やかに話し出した。
「君らの先生はすごくいい先生だよ。さっきは職員室で、この教室から戻った先生一人一人に丁寧に頭を下げて『申し訳ありませんでした』と謝っておられたんだ」
 担任は自分よりも遥かに若い教師たちに心を込めて謝っていたのだ。皆が担任の人格に触れた思いがした。
 H高校は浄土宗がバックボーンであると称していた。式典の中で声楽の教師が朗々と謡う宗教歌は体育館に響き渡り、胸の底が震えた。それは線香くさい陰気なものでなく素晴らしい音楽だった。

 盆地の街にも春の気配が漂い始めたある日、3時間目の授業が終わりに近づくと、何の前触れもなく黒板の上のスピーカーが鳴り出した。短い音楽が流れ、教師の『お話』が続いた。『お話』は説教調ではなく心地よく聴くことができた。だが和樹は話の中身よりも前奏のテーマ音楽に魅せられた。それまで聴いたことがない旋律だった。
 数日後、放送部の顧問に尋ねた。それは『水上の音楽』の一部だった。作曲者がヘンデルというので中学校の音楽教室の天井近くに貼り付けてあった巻き毛をした人物画を思い出した。それからは3時間目の授業が終わりに近づくのが楽しみになった。
 和樹は勉強には殆ど興味がなかった。授業を理解できれば何となく内容を反芻するが、理解できなくても困るとも思わなかった。ただ3時間目の終りに流れる短い音楽に癒された。

 6月に入り重い空が多くなる頃、全校集会で生徒指導の教師が頻繁に登壇するようになった。その教師は「こんな話をするのは忍びないが」と前置きして続けた。
「先日、残念ながら二人の生徒に退いてもらった。彼らと幾度も話をし、精いっぱい指導をしてきた。しかし残念ながら今回のような結果になった。君たちにも色々あるやろうが入学してきたときの気持ちを忘れず校則をしっかり守って過ごさなければいかん。今回のような事態にならんように」
 陽ざしが強くなり夏の気配が漂うころまで臨時の全校集会が幾度も繰り返された。和樹は隣にいる生徒に小声で話しかけた。
「なんで生徒がぎょうさん退学していくにゃろ」
「なんかやりよったんや。そやけど、えろう続くなぁ」
 その生徒指導の教師は熱心で真面目に見えたが生徒に好かれてはいなかった。

 高校に入って3ヶ月経った頃、窓際の和樹の席を6月の明るい陽射しが温めていた。先生の抑揚のある説明が心地よく、ふわりとした雰囲気を感じていた。ふと気が付くと教師がすぐ後ろにいた。英作文の時間だった。
「お前、ここら辺のこと、みな分かるんか。ノートも書かんで、真面目にしてへんと、すぐ分らんようになるで…」と教科書のページを指さしながら静かに言った。少し皮肉っぽい感じがした。叱られていると理解でき、その理由が分かるまで時間が掛かった。
 その日一日は頭の中が白くなった。好感を持っていた英作文の先生に叱られるとは思いもしなかった。胸がつっかえる思いがした。理不尽な異物だった。腹が立つのでなく、寂しく悔しい気持ちだった。

 そのことがあってから和樹は英作文の授業では決してノートをとらず両手を膝に置いたまま先生の授業を聴き、黒板を凝視して過ごした。家に帰ると授業を反芻しながら教科書の問題文を英語に置き換える予習をした。それが正しくなくてもよかった。
 3学期の最後までそんな態度を続けた。先生は時折和樹の席にやってきて机に広げてあるノートを見た。無言だった。和樹も黙っていた。それでも先生を嫌いではなかった。

 2年になるとき進路分けがあった。
「先輩の人に聞いたんやけどなぁ、進学コースいうても理系だけちゅうことらしいで、文系は就職するもんがいっぱいいるちゅう話やった。理系いうても名前だけで、文系へいくもんがいっぱいいるらしいわ。先輩が、進学コース行きたいにゃったら絶対理系やないとあかんて言うてはったで」
 理系進学コースは1クラスだけだった。和樹は勉強が好きではなかったが理系を希望した。進学クラスでは理屈が通ると思ったからである。
 3学期が終わる日、担任が言った。
「和樹君、終業式が終わったら職員室へ来なさい」
 全校集会の光景は慣れない人には異様だったに違いない。生徒は千人を少し超えている。全員が詰襟の学生服に丸刈りである。教師は生徒を囲むように体育館の四方に陣取った。男子だけの生徒と男性だけの教師である。
 教室に戻ったあと担任は幾つかの印刷物と一緒に通知表を配った。通知表には想像した通りの評価が並んでいる。しかし成績が良くも悪くも気にならなかった。
 和樹は職員室へ入っていった。担任は和樹を見ると
「あっ、ちょっと廊下行こ」と和樹を廊下へ戻した。
「和樹君なぁ、君は理系を希望してるんやけど定員が1人だけオーバーしてるんや。その最後の1人が君なんや。そやから理系から文系になって欲しいんや。」和樹は答えられなかった。それまで「理系でも何とかなるやろ」と言われていた。
「いや、やっぱり理系がいいです」そして黙った。
「世の中ではなぁ、実際にものごとを決めるのは総理大臣でも文科系やで、社会を動かしてる人はみな文系の人や…」

 高校の1年生にとって、総理大臣が文系であろうと理系であろうと何の関係もなかった。和樹は黙っていた。そんな長い時間のあと担任は職員室へ入って行き、暫くして戻ってきた。
「いま別のクラスの担任の先生と相談してきた。君の代わりにその先生のクラスで理系から文系へ動かして貰えることになった。そやから先生にお礼を言わんといかん」
 和樹のために空きを作ってくれるのはあの英作文の教師だった。和樹は素直な気持ちでお礼を言った。
「ありがとうございます」
 英作文の先生は笑みを浮かべず表情を変えないまま暫く和樹を見つめた。
「お前、理系行ったら又へそ曲げて勉強するやろな…」
 和樹はほぼ1年間抵抗のポーズを見せてきたが嫌いだったわけではない。英作文の教師が自分のために融通してくれたことが嬉しかった。和樹は微かに笑んだ。先生が小さく頷いてくれたような気がした。

 年度が替った。2年生のクラスは居心地がよかった。生徒の行儀が良さそうだった。
 担任の教師は床を踏み鳴らすようにして歩いた。それが如何にもやる気を感じさせた。いつも燃えるような表情をしていた。和樹は戸惑った。自分にやる気がないので落ち着かなかった。
 新学期が始まって数日経ったある日、担任は自分の背丈ほどもある大きな紙を黒板の横に張り付けようとしていた。それには大学を紹介する写真と合格者の手記が載っていた。担任は生徒に背を向けて用紙を画鋲で止めている。
 「これをよく読むんだぞ。汚したり破いたりしたらいかんぞ…」皆が黙って注視している中、すぐ前にいる少し無頼に見える生徒がいった。
「破いたらあかんにゃったら、燃やしたらええにゃ…」彼は重い沈黙を破りたかったに違いない。しかし皆がその言葉に慄いた。

 担任は黙って用紙を貼り終えると、跳ねるように向きなおり、次の瞬間暴言を吐いた生徒の襟首を掴んで椅子から引き摺り下ろした。そして窓ガラスが破れるような怒声を張り上げた。
「なんだと、お前、本当に燃やせるのか。燃やせるもんなら燃やしてみろ!」みんな肝を冷やした。それまで教師がこれほどの怒声を張り上げるのを経験したことがなかった。その生徒は黙ったまま暫くうな垂れたあと謝った。彼はのちに話していた。
「あの時は、つい口にしてしもたけど、ああいう風に怒られてもしょがなかったと思てるで…」

 担任の教師は広島の出身で関西のアクセントが薄かった。和樹にはそれが新鮮に感じられた。担任は常に熱心に話した。HRの時間には生徒の目を射るように見つめて語りかけた。そして最後には決まって言った。
「私は君たちを信頼してる。君たちみんなを信頼している」
 何を根拠にそういうのか少し訝しくはあったが気分は悪くなかった。担任は化学を教えていた。生徒は『ベンゼン核』という綽名をつけた。それを授業中に知ったとき担任は嬉しそうだった。
「君らは私を『ベンゼン核』と呼んでるんか。そらぁ光栄だなぁ」
 担任は近隣の短期大学へも講師として出かけていた。

 2学期になると授業中の脱線話に自分の思い出を聞かせてくれた。自分が旧制の大学を卒業したこと、幹部候補生で少尉として軍へ任官したこと。
 戦争を否定してはいたが、その思い出話には軍務の懐かしさや武勇を披露したいという気持ちが見て取れた。戦場で敵の防壁を爆破したあと、未だその破片が降り終えないうちに突撃していった話をした時は得意そうだった。
「まさに…よくぞ男に生まれけり…だよ」それを勇ましいと感じたが、和樹たちには実感が伴わずまるで戦争映画だった。
 夏の暑さが和らぎ、陽ざしが柔らかくなった頃聞いた脱線話はあまりに生々しいものだった。
「…小隊を率いていた。明け方近く、山の中で敵に囲まれたんだ。暫く続いてた銃声がなぜかパタッと止んでなぁ、もう敵が退いたのかと思うて部下の一人が外へ出たんだ。その瞬間ダダダッと撃ってきて、彼は顎を吹き飛ばされてしまったんや…」

 和樹たちは銃弾に顎を砕き飛ばされた様子を想像した。戦争映画では描かれない戦場の光景だった。そしてそのあとの話は更に衝撃的だった。
「明け方になって夜が白んできたとき、やっと敵が遠退いてな、…ところが1人だけそこらに残ってる奴が居たんだ。私の小隊は幾人も無残に命を落としていた。部下が引っ張ってきた奴を座らせて、軍刀でズバッと…。斬られてスックと立ち上がりましたや…拳銃でズドンっと…崖の下へ転がっていきましたや…」
 担任は手首をくるくる回し、その光景を話して聞かせた。背筋がヒヤリとした。戦争は殺し合いであると理解していたが、軍刀で斬った話が印象に残った。もはや捕虜になるべき状況だと思ったからでもある。

 担任は機会あるごとに勉強するように言った。
「日本は時代が変わったというても、まだまだ学歴がものいうからなぁ。君たちは精一杯勉強してくれ。私もできる限り頑張るからなぁ。本校の進学率というのは、つまりこのクラスの進学率のことや。私は君たちを信頼しているよ」
「君たちを信頼している」と力強い眼差しで幾度も言われた。偽りの言葉とは思えなかった。

 しかし和樹は勉強には興味がなかった。秋になるとクラスの友達に誘われて琵琶湖の西に連なる比良山系を登った。初めて山登りを経験した。山路を行く間は諸々の息苦しさを忘れることができた。
 2学期が終わる頃にラジオ作りを覚えた。抵抗、コンデンサー、コイル、シャーシなどを揃えて作業に取り掛かると、あっという間に時間が経ち、気付くと東の空が明るくなっていた。自分だけの世界だった。

 勉強には興味がなかったが英語だけは人並みだった。3学期が終わる日、英作文の先生が授業のあと和樹を呼んだ。そして手に持った成績表を示しながら
「お前、もうちょっとで『5』になるんやけどなぁ、もうちょっと頑張ったらええんや」
 そんな話をしてくれたことが嬉しかった。だが特に頑張ろうとは思わなかった。成績には殆ど興味がなかった。
 世の中では所得倍増政策がいわれ工業生産力の向上がいわれた。少しずつ物の値段が上がり始めていた。人々は期待に反して「物価倍増」だと不満を漏らしていた。

 3年生になり季節が巡って街に冷気が溜まり始めるころ、クラスの一人が勢い込んで教室へ戻ってきた。
「あのなぁ、お前らビックリすんなよ。俺らが卒業した後に入ってくる奴は丸刈りにせんでもええらしいで…」
 それは1000人を超える在校生にとって天地を引っくり返すような情報だった。和樹たちが卒業したあと中学部ができる予定で、グランドの脇にその校舎がほぼ出来上がっていた。
 学校は志願する小学生にとって丸刈りは大きな抵抗になると考えたのである。つまり経営上の理由で建学以来続けてきた丸刈りをやめることにしたのである。丸刈りが伝統だというのは非科学的な強弁だった。丸刈りは『金』と引き換えにできる程度のものだった。

 ほどなく『丸刈り廃止』が学校中に知れ渡った。丸刈りは和樹たちにとって高校生でいる絶対条件だった。だから我慢し続けた。
「ほな、今度の4月から1年と2年はどうなるんや」
「そら入ってくる生徒が丸坊主と違うにゃさかい、来年からは皆が丸坊主にせんでもええにゃないか?」
「そんなアホな、俺らばっかり丸坊主か」
 この事態は3年生にとって理不尽の極みであった。入学時に丸坊主を確約させられたにも拘らず3年生以外は新年度から長髪にできるのだ。

 そんなある日の午後、3年生だけが体育館へ集められた。体育館には生徒指導の教師が全員揃っている。その眼が幾分緊張しているのが見てとれる。和樹たちは小声で口にした。
「急に集めたんは、やっぱり丸坊主の話やろなぁ」
「何んちゅうて俺らに説明すんにゃろ」
3学年だけといっても7クラスあり300名余りである。全員が集合し終えると教師が叫ぶように口を開いた。
 「静かに…、静かにしなさい…」しかしざわつきは収まらない。教師は更に叫んだ。「みんな、静かにしろ!」
 やっと生徒が鎮まると生徒指導のトップが出てきた。ゆっくりした足取りで中央まで歩くと生徒のほうへ向きなおった。やけに落ち着いている。
「君らはもう半年もしないで卒業することになるんやが、君らの母校は来年以降ますます発展する。…君らも知ってるように来年から中学部の生徒も入ってくる。
 中学部ができるんや…。中学生まで丸刈りにするのは酷だ。それで来年度からは在校生全員も髪型を自由にすることになった。但しやくざのような角刈りはいかん」生徒はまたざわついた。
「そんなわけやからお前たちも今後は自由にすることになった」
 幾分皆の表情が緩んだ。だがそれだけで話は終らなかった。
「君らはしかし…、今の髪型はどうだ?なかには本校に入学して間もない時から校則に違反してる者さえいる。そこでこの際、全員が入学当初のようにきれいな丸刈りに戻せ!そのあと角刈り以外は自由にしてもええ。…以上」

 和樹は呆気にとられた。体育館がうねるようなざわつきでいっぱいになった。承服できる筈がなかった。皆の表情が歪んだ。憤懣の声がうねった。
「そんなアホなことあるか。俺らばっかり、いま坊主にしたら4月になっても髪が伸びひんやないか」
『一旦坊主頭に戻せ』というのは教師がスッキリしたいだけである。生徒のざわつきが思いのほか大きくなって教師の声が少し上ずった。
「よーし、これで解散。教室へ戻れ…」
 誰も動かなかった。生活指導の教師と不穏な300名余りの生徒が対峙し始めたのである。クラス担任はいなかった。
 ところが教師が解散を宣言して暫くすると和樹のクラスだけが列を保ったまま動き出したのだった。そして体育館を出て教室へ向かった。他のクラスは動かなかった。やがて担任教師たちが応援に呼び出され自分のクラスを宥めたらしかった。

 和樹たちがクラスに戻りストーブの周りに屯していると担任の教師が駈け込んで来た。そして席に戻った生徒一人ひとりを射るように見つめながら大きな声で言った。
「私は、今日ほど君たちの担任をしていてよかったと思ったことはないですや」
 担任は親しみを込めて話すとき語尾に『や』を付けた。次の瞬間その真剣なまなじりが緩み、満面の笑みに変った。
「3年の担任は皆、体育館へ呼ばれて、…未だグズグズやってますや」
「あの生徒指導の先生は君らを軍隊式に躾けようとし過ぎるとこがありますや。私らもあれ程しないでもいいのにと思うこともあるんですや」満足感が零れそうな顔で続けた。

 その日の6時間目は教師がやって来なかった。6時間目が半ばほど過ぎた時、1人の3年生が教室へ入ってきた。良くも悪くも学年のリーダーの1人であった。彼は和樹のクラスの同じリーダー格の生徒へ近付いた。どちらも学年のリーダー仲間だった。
「おい、お前らだけ、なんで体育館から出てしもたんや。お前らかておんなじ気持ちやったんと違うんか…」詰問を受けて彼は一瞬たじろいだがすぐに応じた。
「俺らの担任がな、いつでも君らを信頼してるっちゅうて、そう言うとぉんにゃ。そやさかいな…」やって来た生徒は短い言葉を返したあと厳しい顔つきで教室から出ていった。
 和樹たちは担任の信頼に応えたのである。それも最も劇的な場面でのことだった。

 その頃、和樹はクラスの雰囲気に抗えず受験勉強の真似ごとに取り掛かっていた。英語と国語はもはや勉強のやりようがなかった。日本史は覚えれば点数を稼ぐことができた。しかし教科書の人名などを覚えて模擬試験を受けたが惨敗だった。教科書に太字強調されている人名などでは得点できなかった。そこで予備校の教科書を使った。それを開くと、学校の教科書では何ら強調されていない人名や地名などがクッキリと太字になっていた。
 その太字を繰り返し覚えた。歴史の流れなどに興味を持たず太字強調された部分をひたすら暗記するのが効率的だった。しかしそれは受験が終ればあっという間に忘れてしまう無為な努力でもあった。

 春までの時間がなく、やたら気が急く暗記作業に嫌気がさして中断すると、きまって体育館の事件を思い出した。
 あの日、本当にあれでよかったのだろうか。担任との絆は深くなった。しかし和樹のクラスも体育館にとどまり理不尽な仕打ちに抵抗すべきだったのではないだろうか…。


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