55 拉 致

ていいちOTP

 幼児の頃、子どもにちょっとした脅しを口にするとき「…人さらいが来て連れていかれるぞ」というのがありました。さらってどうするのかと尋ねると、サーカスに売り飛ばすのだとかなんとか実しやかに話したものです。

 サーカスといえば神社のお祭りになると境内の一角に大きなテントを作って空中ブランコを披露していたのを覚えています。そのテントへ入るには子供にとってかなり高額の支出を余儀なくされました。
 思えば、神社の祭礼のサーカスなどは規模の小さいものだったでしょうけれど、子供にとって演じられている技は人間業とは思われませんでした。そんな技を仕込むために子供に目を付けて人さらいが暗躍しているのだと教えられ、戦慄しました。しかし心の片隅では、そんな“人さらいの話”はきっと嘘が半分くらい混ざっているだろうと子供心に思っていました。

 横田めぐみさんが北朝鮮の工作員に拉致されたのは戦後30年以上経った頃です。あの時代、日本は戦後復興を果たし更に経済成長も順調でした。そんな時代に人さらいが現実に行われたというのはまさに驚天動地の事実です。横田めぐみさんが拉致された頃、新潟市の海沿いの整備された道路を幾度も通ったことがあります。
 横田めぐみさんと同様に不自然な行方不明者が幾人もおられます。その人たちも北朝鮮の工作員に拉致された可能性が高いのです。

 しかし北朝鮮は不法上陸や人さらいを繰り返していた事実を認めようとしませんでした。日本国内でも、『国家の手で不法上陸した挙句、国民を拉致するなんてことは…そりぁありませんよ』と社会党の土井たか子氏が断言していました。
 おそらく土井たか子氏は名指しされたのが北朝鮮だという理由で否定したのではありません。拉致の直接の被害者家族、縁者でない人にとっては“他人ごと”であり、平和な時代にいくら共産主義の独裁国家であろうと、国家の工作員が他国の海岸線から上陸してきて一般人を拉致するなどということは信じられないことだったのです。北朝鮮は国際的な常識が通用しない国家なのです。

 小泉内閣の時代、首相が北朝鮮を訪問して金正日に拉致を認めさせ5名の被害者を帰国させました。当初は一時帰国ということだったらしいですが北へ戻ることはなく、後に子供さんたちも親の元にやって来ました。しかし横田めぐみさんのご両親には辛い光景であったに違いありません。帰国者にめぐみさんは含まれていなかったのです。
 拉致かどうか確実になる前から力の限り運動してこられた横田さんご夫妻の講演内容を紙面で読むと、悲壮な決意で娘を奪還しようとする強い意志が感じられます。

 ただ、おかあさんの言葉が少しだけ気になります。めぐみさんのお母さんはお話で次のような趣旨の言葉を強い調子で付け加えられます。
 「皆さんお一人おひとりが、自分の子供が拉致されたならどう思うかを考えてください」
 これは横田めぐみさんのご両親のほか数人の人たちだけが北朝鮮による拉致であると推定し救出に向けた孤独な活動を続けてこられた当事者として当然の心の叫びに違いありません。しかし同じ日本人であっても直接の当事者でない周りの人間にとってお母さんの言葉は強過ぎると感じるのです。或いは私だけかも知れませんが、何だか叱られているように感じてしまいます。
 めぐみさんのご両親にとっては、どうして自分たちの娘が外国人にさらわれなければいけないのか。それも日本国内で不法上陸の上の傍若無人な振る舞いの犠牲とは。そんな思いから口にされる言葉だと分かっているのですが、やはり叱られるいわれはないと思ってしまうのです。

 めぐみさんのお母さんの心の叫びを聴く度に何とかならないものかと、同胞としてもどかしい気持ちになります。
 北朝鮮と日本は正式な国交がなく彼の国では国際的な常識が通用しません。更に外交交渉で解決しようにも現在の日本には外交カードが殆どありません。外交カードはお遊びのカードゲームとは違います。相手国の政治的生命、指導者や国民の命に直接に或いは間接にでもかかわるカギです。現在の日本にはそういうカギがあるようには思えません。

 素人考えで難しいことは知らないのですが、日本は天文学的な額の借金財政で、民間で例えれば自転車操業ですから、“お金カード”はありません。経済的にも昔のような高度経済成長期ではなく停滞期ですから余裕はありません。加えて北朝鮮は目を覚ましつつある獅子、中国とかなり仲良くしていますから日本の経済制裁など実効が期待できません。

 各国の首脳は敢えて口に出しませんが国際的な実力はやはり軍事力です。日本の軍事力はどれほどのものか分かりませんが武力で北朝鮮と対峙するのは現実的ではありません。北朝鮮が核を保有していることが大きな脅威になっているのも否めません。
 今となっては2003年にサダム・フセインのイラクがアメリカに攻撃されたとき、金正日が口にしたという「イラクがアメリカに攻撃されたのは核を持っていないからだ」という言葉はおそらく的を射ていて忌々しい限りです。
 いずれにしても本格的な戦争となれば兵士をはじめとして大勢の人々の命が失われる結果になります。

 そう考えると先日(2014/10)政府関係者が訪朝した際の様子に、めぐみさんのお母さんが「もっと畳みかけるように交渉できないものか…」と感想を述べられましたが外交カードの乏しい日本が交渉の席で感情的に畳みかけても焦りを見透かされるだけでしょう。

 それにしても戦後30年以上も経った時代に簡単に外国船が領海を越えて陸地に近付いたうえ工作員が上陸し、国民をさらっていったという事実が信じられません。あの時代社会党の土井たか子氏も「…そんなことはありませんよ」と常識的な発言をしたほどですから日本人はお人よしなのでしょうか。
 経済発展ばかりに気を取られて沿岸の警備を忘れていたのでしょうか。島国の日本では沿岸が長大ですから警備するには困難が伴うでしょうけれど、おそらく物理的な理由よりも北朝鮮の工作員がわざわざやって来て日本人を拉致するなんて…、
 土井たか子氏とおなじように“…そんなことあるわけない”と考えていたのだと思います。それに海上保安庁も沿岸警備は太平洋側を重視していて日本海側を疎かにしていたのかも知れません。

 今後の交渉で何とか良い結果が出ることを祈るばかりです。彼の国では結果を出せなければ政権の幹部でも簡単に処刑されるのですから命がけで交渉の席に臨んでいます。そんな相手に学校の成績が良いだけの幹部や官僚?が太刀打ちできるのか心配です。

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