53 ヘイトスピーチ

ていいちOTP

 最近(2014/09/10)、ヘイトスピーチが話題になっています。じつはヘイトスピーチという言葉を初めて知りました。hateとspeechの両方の意味は知っていましたのですぐに想像はできました。しかし“何を”憎いと思う発言なのか分りませんでした。
 調べるとすぐに分りました。新聞にも関連記事が載るようになりました。そしてhateの対象が何か分かった時、とても驚きました。“呆気にとられた”と言ってもよいほどでした。

 hateの対象は見る限りでは朝鮮半島の人たちや中国の人たちなのです。特に在日韓国人の人たちに向けられた発言が目立ちます。韓国、北朝鮮の国籍だといっても中国のそれだといっても、現在では殆どが2・3世です。親も自分も日本で生まれ育ち日本の社会で暮らす隣人なのです。中には犯罪者になる人もいるでしょうけれど、それは日本人でも同じことです。犯罪者がたまたま在日の人だからといって、在日の人たち全体がそうであるかのような発言は極めて非科学的でカルト的です。勿論、日本人であろうとなかろうと犯罪者に対しては厳正に日本の法律で処罰すべきだと考えています。

 しかし何故一人の個人として“人”を見ないでカテゴリー分けをして偏見を持つのでしょう。それはきっと気楽だからだと思います。自分で深く考えて結論を得るよりも、非科学的でカルト的であっても多数派に寄り添って「そうだ、そうだ…」と言っているほうが楽なのです。本当は大切な“自分のありよう”を既成の集団に埋没させているのですが、それに気付かないばかりか自分が“大きく”なったかのような幻想に囚われているのかも知れません。

 自然科学的なものでも社会科学的なものでも、何かを判断して行動するには自分で考えなければなりません。自分以外の人の考え方を参考にするのは必要なことですが、結論を出して行動を起こすのは自分の責任なのです。
「おまえが○○と言ったから…」とか「あいつが△△というからだ…」と人のせいにしてはいけません。考えることなしに他人の言葉に依拠し、その行動の結果を他人のせいにするなら自分が世の中に生きている理由がありません。

 そう考えるとヘイトスピーチに代表される、多数派へ自己を埋没させる振る舞いは自信の無さの結果かもしれません。そして日本人には、個人として自信が持てず、ともすれば多数派に与(クミ)するのを良しとする人が多いような気がします。(日本人だけじゃないかも知れませんが…)あるいは論を戦わせるような“争い”を忌避して孤立を避けるのかも知れません。論戦は対立を深めこそすれ互いを理解し合う結果にはならない…のでしょうか。

 小学校の高学年の頃、テーマを決めてクラスを2つに分け、互いに相手よりも優れていると主張し合う、ディベートの勉強をした記憶があります。敗戦後10余年の頃、デモクラシーを教える手立てとしてカリキュラムに組まれていたようです。
 話し合うことで互いを理解し合うことを教えるため、互いの対立点を話し合いで歩み寄る経験をさせる勉強をしたのです。しかし思えばもともと利害関係のないクラスの生徒を二手に分けただけですから本当のデモクラシーの勉強とは言い難いものでした。ただ戦前の小学校では考えられないカリキュラムだったことは間違いありません。

 ではヘイトスピーチは利害関係という観点からみるとどうでしょう。どう考えても具体的な“利害関係”が見えてきません。自分たちのモヤモヤした“空気”を振り払うために朝鮮半島出身の人たちや中国の人たちを敵対する存在であるかのように見なしているのです。悪者を作ることによって自分たちが一つになって安心したいのです。そういうスタンスはデモクラシーとは180度ずれたものです。

 先日(14/08/29国連人種差別撤廃委員会は日本政府に対しヘイトスピーチ(憎悪表現)に毅然と対処し、法的規制を行うよう勧告する最終見解を発表しました。そしてこれに対して国内では反論あるいは懸念の声が浮上しています。この種の法律は言論の自由とオーバーラップするからです。言論の自由はデモクラシーの基幹部分です。デモクラシーと180度ずれるヘイトスピーチを法的に規制するとデモクラシーの基幹要素である言論の自由を侵す可能性があるというわけです。とても皮肉な矛と盾です。為政者が法律の条文を都合よく解釈してきた苦い記憶があるからです。今回も一旦法律が出来上がると適用範囲が広がる可能性があるというわけです。

 そもそもデモクラシーの有り難さを身に沁みて感じている人たちならヘイトスピーチなどできないでしょう。しかしデモクラシーは日本に限っていえば自国が身銭を切って得たものではありません。敗戦後、上から被さってきたものです。むかし若い人たちに話したことを思い出します。
「我が国では、親や兄弟といった近しい人が正当な理由もなく目の前で殺されるような経験をしていないから、デモクラシーの真の有り難さが理解されないのだ…」思い返すとかなり恥ずかしいです。ただこの説明には敗戦直後の大陸での悲惨な出来事は念頭にありませんでした。心に描いたのは同じ国の中で王侯貴族やそれに類する者たちが庶民に対して専横の限りを尽くした歴史でした。
 先日新聞のコラムに『日本に真の民主主義が根付かないのは、国民が“革命”を経験していないからだ…』というのがありました。“革命”とは穏やかでありませんが、少しだけ『なるほど』と思いました。

 人間同士が相手の痛みを想い合うならヘイトスピーチなどできず、法的規制の必要もなく、言論の自由も守られるという想いは幼稚過ぎるかも…と訝しくもありますが、デモクラシーや平和を帰納的に考えれば、例え幼稚に見えてもそれしかないと思えるのです。“相手の痛み”から演繹的に考えても矛盾はありません。ただ『そんな青臭い思考など現実には通用しない』と言われると、そうかも知れないと思ってしまい言葉を返せません。

 ひょっとして戦中戦後の悲惨な経験が生々しかった頃だからこそ、デモクラシーが上から被さってきたものだったとしても、その有り難さが身に沁みたのかも知れません。そして次の世代である私たちにも大切な理念として受け継がれました。
 しかし戦後復興が成り、モノの豊かな時代に生を受け育った人たちは戦争の悲惨も耳にする機会がなく豊かな社会が当然になり、ヘイトスピーチが社会全体にとって、危険な兆候であることに気付かなくなっているのかも知れません。

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