50 馬 蹄 腎

ていいちOTP

 子供の頃は体が丈夫ではなく、風邪をひいてよく医者にかかりました。医院の待合室には診察を待つ子供が沢山いました。長い間順番を待ったと思いますが、待つのが嫌だったという記憶はありません。幼少の子供にとっては、それが暮しの一部であり仕事めいたことがないからでしょう。

 名前を呼ばれて診察室のベッドに横になると真上に“ガラガラ”と回るものがありました。数年後その医院が小児科だったと分かります。未だ戦後十年経っていない頃でした。その小児科医院では女性医師も看護婦さんも優しく接していました。子供だったのでよく判りませんが、あの時代はきっと患者が医師を全面的に信頼していたのです。医師も患者の信頼を肌に感じてそれに応えようとしていたに違いありません。

 当時は戦後の義務教育が始まったばかりでした。大きな都市でしたが、中学から高校へ進学しない人も少なくありませんでした。学歴は将来の暮らしを左右すると信じられ人々の憧憬でもありました。その点、医師は高学歴で医学部は難関です。ですから一般の人々が医師に対してモノ申すことなど滅多になく、医師も誠実に診療にあたっていたと思いますが稀に失敗したとしても専門的知識のない患者や家族が医療過誤だと分かるのは余程の場合だったに違いありません。医院をしていた伯母の家でカルタをしていた時、伯母が「……いのちまもる」というカードを手にとって「……殺すこともあるのになぁ……」と口にしたのを覚えています。

 近年は学ぶ中身を云々しなければ大学全入時代といわれるほど一般的に高学歴になりました。またテレビやインターネットである程度医学的な情報に接することもでき、中にはかなり専門的なものもあります。その為か医師に対しても距離感が希薄になりました。そして治療が失敗だと考えると医療過誤として裁判沙汰にする人が多くなりました。医師と患者の間に存在していた信頼関係が社会的な力関係にとって代わりつつあります。

 また数少ないのですが過去にはない応対をしている医院も見られるようになりました。義父が手術を受けた眼科医では来診する患者を「〇〇さま」と様づけで呼んでいました。流石に面映く落ち着きません。病院経営という観点からすれば患者は病院にとってお客様ではありますが、患者としては奉られるよりも同じ目線で優しく接していただくのが一番です。

 今では遥かなむかし平成元年(1989)、思いがけず大手術を受けることになりました。特に暑かったその年の夏、遠野へ2度訪れました。1度目は独りで、2度目は妻と一緒に出掛けました。独りで出掛ける前に人間ドックを受け、その際腎臓が縮んでいるようなので泌尿器科で検査を受けるよう言われました。実は前年のドックでもそう告げられていましたが自覚症状がなく普通に生活できましたので、そのままにしていたのです。しかし2度も同じ指摘を受けて念のためと泌尿器科を受診したのでした。町の県立病院で受診すると医師は看護婦に「CT~!」と伸びた声で告げました。CTを撮る前に造影剤を注射することを初めて知りました。でも結果については全然心配していなかったのです。

 妻と遠野へドライブをして帰ってきてから結果を確かめるため通院しました。酷く暑い終戦記念日でした。医師はCTの画像を見ながら左の腎臓が水膨れだと言いました。水といっても腎臓だから尿膨れです。左の腎機能は殆ど無いとのことです。腎臓から膀胱へつながる尿管が通らないため左の腎臓が膨れているのでした。
 腎臓が“馬蹄腎”なので成長するにつれて尿管が捩じれ尿管詰りの原因になったのだそうです。胎児の初め、腎臓は1個だけで誕生までに左右に分かれるのだと初めて知りました。それが左右に分かれ切らずに馬蹄の形で生まれたわけです。

 医師は尿管が詰まれば痛みがあった筈だと言います。しかし痛んだ覚えがありません。そこで『尿が溜まり腎組織を潰しながら膨らんできたが、長い年月を経て少しずつ進行した』という結論になりました。そしてそのままでは外的な衝撃で破裂する恐れがあり摘出手術が適当だと判断されました。思い掛けない事態でした。それまで普通の体だと思ってきて、突然片方の腎臓が機能していなかったと診断されたのはかなりの衝撃でした。さらに片方を摘出する際、腎臓を切り離す必要があり出血を抑えるために1週間絶対安静だと告げられました。絶対安静というのはベッドに横になった状態で殆ど動かないでいることだと初めて知りました。その苦痛を想像して怖れました。

 医師に心配と怖れを話すと最初は黙っていましたがしだいに態度が変わりました。医師は嘲笑するように断定的に答えました。
「1週間じっとしているのは、そりゃぁ苦しいでしょうね」
「決して軽い手術じゃないですよ」
「そんなに怖がっていてもしょうがない。ドーンと構えて……」
 悪性疾患でもないのに手術を怖がっているなんて気が小さく情けないという口ぶりでした。外来の忙しさに早く次の患者を診たかったのかもしれません。

 診断はショックでしたが、そんな状態で長い年月を過ごしたわけですから最初は年末にでも入院しようと考えていました。しかし正月を控えると医師も看護婦さんたちも手薄になると助言してくれる人もあって9月の2週目に入院することになりました。初めての大きな手術と術後の絶対安静という怖れを早めに終えたい気持ちもあったのです。
 ところが手術前の検査で、肝臓の数値が全身麻酔に対して十分でないという理由で手術は延期され肝臓機能回復を促進するために点滴が続けられました。
 点滴は殊の外気分が好くありません。やわな皮下に注射針が長時間刺さったままになり行動の自由を奪われるのが大きな苦痛です。点滴が普及しだすころ、画期的な治療法として報じられたのを覚えています。しかし人間を生物として扱う立場では画期的でも患者の精神的な苦痛を無視したやり方です。

 また馬蹄腎は一種の奇形とのことで腎動脈を確認するため血管撮影をすることになりました。これは鼠踁部の動脈から目的の箇所までカテーテルを挿入して撮影直前に造影剤を血管内に噴霧するのです。この血管撮影も初体験で、動脈に管を入れるというのも驚きましたが検査のあと24時間ほど鼠踁部に重しを乗せられたままじっとしているのが辛いことでした。動けないので尿道にカテーテルを入れて膀胱から尿を垂れ流し状態にします。それはかつてなく長い辛い夜でした。膀胱内でカテーテル先端のバルーンを膨らませ抜けないようにするのです。しかし膀胱がそれを押し出そうとする為か周期的に酷く痛みました。看護婦さんを呼んで伝えると
「管を入れておけないなら、おしっこが溜まる度に管を入れ直すしかない。そうしますか」と言いました。それが酷くそっけなく如何にもビジネスライクな態度で恨めしいことでした。
 のちに手術が終って退院間近の頃、尿道カテーテルを何度も経験しているというベテランの人が入院してきました。ある日の朝、その“ベテラン”の患者さんの会話を耳にしました。
「今まであんなに痛いことはなかった。まるで焼け火箸入れられているようだった。看護婦に話してバルーンを小さくして貰ったらひどい痛みが治まった」
 焼け火箸というのがまったく同じ経験でした。そして担当した中年の看護婦が意地悪だったのかも知れないと思ったのでした。

 手術は入院後3週間ほどした日でした。病室で注射を打たれました。緊張を和らげる注射でしたが直面する恐怖が和らぐというより、否応ない事実をきちんと見定めることができない不安感が強くなりました。
 手術室へ入ると腕に注射を打たれ、そのあと記憶が消えています。注射は一時的な麻酔で左腎摘出術のあいだは挿管麻酔(気管に管を入れ麻酔ガスを吸わせる)でした。

 次にぼんやり周囲の状況が分かるようになった時は既に病室に戻っていました。周囲に沢山の人がいるのが分かりました。そして程なく再び意識が遠退きました。手術が終わったその夜、ぼんやり眠ったり朧に醒めたりを繰り返しました。
 外が明るくなり病院の中がざわつく頃、医師がやって来ました。長く待った手術が終わり安堵していると医師が看護婦さんに
「普通の腎摘でいいよ」と伝えました。通常の腎臓摘出後の対応は“絶対安静”ではありません。馬蹄腎を左右に切り離す部位にはもはや腎臓組織である糸球体がなかったのでしょう。
 ベッドへやって来た医師に挨拶をしました。
「先生大変お世話になりました」すると医師は
「…よく言うよ…」と応えました。なぜそんな言葉を返すのか奇異に感じました。
「はぁ?」と口にすると医師は
「あんたは覚えていないんだから、まぁいいよ」と言いました。

 手術後は順調に傷が回復して2週間ほどで退院ということになりました。退院の時ナースステーションに1人でいた若い看護婦さんが
「右の腎臓を大事にしてください。事故などで右の腎臓がダメージを受けるといけませんから」と話してくれました。
 その後出勤するまで家で静養していたのですが、手術の明くる日に医師が言った言葉を何度も思い出しました。
「あんたは覚えていないんだから、まぁいいよ」とはどういう意味だろう。
 そして何度も考えているうちに、ぼんやりとした記憶ともいえないようなモノが胸の奥に残っているのに気がついたのです。

 最初にCTの画像を前にしながら手術の説明を受けた時の不安と怖れを思い出しました。そして医師の馬鹿にしたような対応に心の中で湧き上がる不愉快な気持ちを反芻しました。理不尽なことに反論することは幾度もありましたが手術を前にして大きな不安もあり、医師に抗議するなどできないことでした。

 気が小さく正確なことを好む質ですが不安のある未知のことには怖じ気が出てしまう。それまで職業人生でも同僚の人のように仕事ができず極度に緊張してしまう場面が日常的にありました。永い年月、嫌というほど凝視してきた弱さを医師に幾度も嘲笑するように指摘されたのでした。そして胸の内で
「そんなことを、お前に云われなくても、嫌というほど認識しているゾ。お前に指摘されなくとも知っている。簡単に性格を直して度胸を付けることができるなら、今まで苦労なんかしなかったんだ。お前なんかに偉そうに言われたくないんだ。」…そう繰り返したものでした。

 手術が終わって麻酔が浅くなりつつあった時、胸の中にあるそんな台詞を口にしたのかも知れません。そういえば手術の前、ある看護婦さんが
「手術の麻酔がさめる時にあらぬことを口走る人がいるんですよ」と言っていました。おぼろげな記憶の片隅に、手術台の上でブツブツと口走っていたような幽かな自分がいました。
 確かな記憶でなく淡いものでした。しかし胸にあるものが言葉になって医師ばかりでなく手術室にいた幾人かの看護婦さんたちにも聞かせてしまったと考えたとき、恥かしいという気持ちと同時に痛快な思いも湧き上がりました。いや痛快な思いがずっと大きかったのです。麻酔の覚め際に口走ったことは医師に伝えたかったことであり看護婦さんたちにも聞いて貰いたいことだったからです。

 手術前に主治医でない年配の医師に受診したことがありました。彼は如何にも上から目線で
「それくらいなら素人でも分かるだろ」と言いました。患者が医学に対して素人なのは当たり前です。しかし医師が人間的に患者を見下していては『インフォームド・コンセント』などあり得ないことです。患者に様づけまでしなくてもいいのですが同じ目線で診て欲しいと思うのです。
 街のある整形外科の待合室には医師免許と医学部の卒業証書が額装して壁の高みに掲げてあります。最初それを見て、なんという厚顔無知かと目を疑いました。その医院へは通院したくないと思いました。しかしどうした訳か待合室はいつも老人で込み合っています。

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