46 ネイティブ京都人

ていいちOTP

  新潟へやって来たのは45年前になります。非常に長い時間に違いないのですが長い月日を経たという実感がありません。歴史を振り返る文章などには『“半世紀”にもなる』という表現がよく出てきます。それには未だ5年足りません。
 新潟へ来た当座、生まれが京都だというと職場の人に
「…誰にでも京都を武器にすることができるねぇ!」と言われて戸惑いました。生まれたのが偶然その場所であっただけで、京都が有名な観光地であるというのはネイティブの子供にとっては何の感慨もないことです。

 小学生の時、『京都は道路が碁盤の目になっているから分かり易く、道に迷わない』と教えられました。しかし物心ついた時から目にしている街の様子が特別なものであるというのは訝しいばかりでした。高校時代になると街の端の山裾まで足を伸ばすこともあり、その辺りでは道路が曲がりくねっていて碁盤の目なのは中心部だけだと知りました。
 また戦争で京都が空爆されなかったのは歴史的な神社仏閣が数多く有るからだと聞かされましたが、そんなものかと思うだけでした。子供には点在する神社仏閣など古めかしく感じ、何ら心楽しい風景ではなかったのです。実際戦後10年余りの頃、目にする神社も寺院も手入れが行き届いてはいませんでした。10年ちかくまえ京都を訪れたとき、小学校の向かいにある寺院が記憶に残る姿と異なり、余りにも立派に様変わりしていて驚きました。戦中戦後は建物を維持修繕する余裕がなかったのでしょう。

 夏の大文字焼きの火文字の中で一番に点火される“右大文字”の火床の場所まで登ると、ほぼ京都の街全体を見渡すことができ、南側の半ばを除いて街が山に囲まれているのが分かります。“盆地”とはよくいったものです。京都は盆地なので冬は底冷えすると言われますが、夏が暑いことを喧伝する表現は知りません。

 冷たい空気が底に溜まるというのは理解できますが暑い空気が盆地に溜まるのはどういう訳か不思議に思っていました。夏の暑さが苦手なので夏が嫌いでした。現在はエアコンが普及していますが本格的に普及し始めたのは“ほんの20年ほど”前です。子供の頃はエアコンなど夢でした。現在のように電車やバスにまでエアコンがあるとは想像もできない時代でした。それでも京都から出るまではそれが当たり前でした。京都の夏が暑いと実感したのは新潟へ来てからです。そして京都の底冷えも新潟ほどではないと知りました。

 新潟でもフェーン現象になると驚くほど暑くなります。南の風が関東方面から山を越えて吹き降りてくるのだといいます。吹き降りてくる際、気圧の変化で圧縮され熱を帯び続けるらしいのです。こんなに暑くては敵わないと思いました。
 調べてみると盆地では周囲のどちらから風が流れてきても山を越えてくるので始終フェーン現象になるという情報を得ました。ネット検索なので関連情報に複数目を通しましたが、これがほぼ正しいようです。

 京都は古都と言われていますが古い都というだけなら京都に限らず奈良なども同じですから単に明治に入る直前、都だったということです。
 京都をこのように評すると大抵の人は戸惑いを覚えるようです。それは《京都》がブランドになっているからです。
 京都は日本の代表的な観光地だと感じている人が多いのです。でも他府県の人々が“心癒される土地”としてイメージするのは京都に点在している寺院や庭園なのであり、それは京都に生まれ育った人々が日常生活を営む空間とは別のものなのです。
 思えば京都の主要産業は観光です。昭和31年、小学生の頃、《京都市民憲章》が作られました。5項目あって4番目に『文化財の愛護』、5番目に『旅行者をあたたかくむかえましょう』というのがあります。これは京都の観光産業の維持発展を目指したものです。
 京都言葉はやわらかく旅行者をもてなす所作も一見心地良いものがあります。しかし他府県出身者が京都にある大学に学び暮らすなど、『住民』になると京都言葉も“もてなし”の所作も観光客相手の営業用であることが分かるでしょう。

 京都の『ぶぶづけ』の話は象徴的な話です。他家を訪問しているうちに「ぶぶづけ(お茶漬け?)でもどうどす(如何ですか)」(=「お茶漬けでも食べませんか」)と言われた時、せっかくの心遣いだからと御馳走になったりすると、これが大違いなのです。訪問先では相手が遠慮する筈だと考えて、辞去して欲しいときに口にする言葉なのです。
 もっともこんな台詞を京都の一般庶民が日常的に口にしているのではなく祇園の花柳界から広まった逸話だと思いますが、その象徴するものはネイティブ京都人のDNAだといってもよいのです。また逆に“京都人”は容易に心を開きませんが、一旦親しくなると親戚のようになるのかも知れません。
 ただ現在ではネイティブ京都人は高齢者となり世代交代も進んだので京都の大学を卒業して街に居ついた人をはじめとして、余所から来た人に高い壁を作る市民は限られているに違いありません。

 いくつもの偶然から新潟で職を得て45年もの時を経ても、私はやはりネイティブ新潟人であり得ません。そして殆どのネイティブ新潟人は私の思いを“故郷への悪しざま”な偏った評価であると感じるらしいのです。

 でも京都をそのように感じていても、なお街には懐かしい場所が沢山あります。例え好い思い出でなくても幼少期の記憶は懐かしいのです。遥かに遠いからかも知れません。時を経ても記憶のフォーカスが緩むことはありませんが、それでも時として溢れるような懐かしさを覚えることもあります。


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