ていいちOTP

3_朝鮮半島の人
   〈文芸しばた〉小説として投稿)

 
ここ数年、和樹は取り敢えず気になる日々の些事を片づけると暫し解放されてのんびりした幸せな時間に浸ることができる。そんな時ふいに心の奥底にある記憶が表に出てくることがある。辛い記憶である。自身でなく和樹が思いがけず深く傷つけたであろうその人の気持ちを想像すると心底痛ましい。昨今ではひと頃の韓流ブームも本来の落ち着いたファン層に支えられるようになっている。ブームの頃は若くて甘い顔立ちの俳優におばさんたちが熱狂した。韓国人の俳優に愛称として「さま」を付けて話題にしていた。

 和樹は長い年月を経れば人の心も変わることをしみじみ思う。主演の俳優さんと相手役の女優さん、その他の出演者は口にする言葉を聞かなければ日本人と区別がつかない。中国は国土が広く民族も多様だからか少し日本人と顔立ちが違う人もいる。その点朝鮮半島の人たちは殆ど日本人と同じだ。
 物心ついた頃、終戦から5・6年の月日が経っていた。戦後のモノがない時代も和樹には当たり前の世の中だった。そんな時代しか知らず比較するものがなかったからである。しかし比較的裕福なごく一部の人でなければ大人たちは生活苦から多かれ少なかれ心が荒んでいた。当時はまだ戦前の世の雰囲気を色濃く引きずっている時代である。それゆえ卓越した教養を持つ人でなければ中国や朝鮮半島出身の人たちに対して差別的な言動を躊躇わなかった。和樹が少年の頃、大人たちはごく普通に朝鮮半島出身者を差別的に第三国人などと表現していた。
 しかし和樹が年齢を重ね小学校を出て中学校を卒業し、高校に入った頃でも子供同士はもちろん周りの大人の中に朝鮮半島出身の人がいるという実感は全くなかった。小学校の同じクラスにも、のちに帰還事業で父親の母国へ渡った友達がいた。その人は日本で生まれ育っているので発音なども同じであった。和樹はのちにその級友が北朝鮮へ渡ったことを風の便りで聞いた。しかし和樹の少年時代、朝鮮出身の人たちの顔立ちを区別できないというばかりでなく大人たちが差別的に話題にしている朝鮮半島の人たちの世界が子供心で認識している世界と僅かでも重なり合っているとは思えなかったのである。和樹は非常に幼稚であった。

 戦後6年経って小学校に入学した和樹は戦後に突然降ってわいたデモクラシーに基づいて教育を受けた。教師たちは大きな戸惑いを感じたであろうけれど、子供は事情が分からず、和樹も先生の話すことを天の声のように素直に受け入れた。自分の母親がごく普通のこととして人を差別していたにも拘らず、『いつも相手の人の気持ちを考えなさい』という教師の教えに魅かれた。子供たちにとって先生はカリスマ的な強い権威がある時代であった。
 吉雄は和樹の父親であるが血の繋がりがない。小学校に入る頃に母親が家へ連れてきた男である。しかしこの吉雄は末っ子である和樹をよく職場に連れて行った。吉雄の職場は京都の中央市場の野菜を市内の小売業者へ運ぶ小規模な運送会社であった。吉雄の三輪トラックの助手席に乗って八百屋や時には果物店への配達に一緒に行った。
 近県から鉄道で輸送されてくる品々が雑然と積み上げられ絶え間ないざわめきが充満する中央市場の中を走っていると時々キャベツや大根などの野菜が路面に転がっていることがある。すると吉雄は三輪のブレーキを踏み「あれ拾っといで」といった。和樹はトラックの助手席から降りてそれを拾った。貧しい生活ではあったが道路に落ちているものを拾うのに抵抗があり幼い自尊心が痛んだ。

 初期の三輪トラックのハンドルはオートバイのものを大型にしたようなものでバーハンドルと呼ばれていた。運転手は大きなエンジンにオートバイのように跨り、エンジン始動はレバーに体重を掛けて蹴り下ろした。左側に小さな椅子がありそれが助手席だった。左右共にドアはなかった。吉雄の会社には三輪トラックが故障した時に修理を担当する人が1人いた。この人は荷物を配達する仕事はしなかった。
 和樹は幼い頃から機械が好きでトラックが分解された状態で置かれていると興味を持ってじっと見ていることがよくあった。トラックの駐車場の奥が車両を整備するコーナーになっていた。昭和32・3年当時はダイハツの三輪トラックが街で活躍していた。マツダの三輪はまだ数が多くなかった。ある日、修理を待つ薄緑色のダイハツ車の中に一台だけ古ぼけたオートバイがあった。埃をかぶっていて錆が所々に出ている。もう動かない状態だ。和樹が興味深そうにオートバイを見ていると、いつも其処で仕事をしている整備担当の人が
「これは今は動かんけど動くようにするだけやったら2000円位で走るようになるでぇ」という。金額を聞いて驚いた。その古ぼけた二輪車が2000円で走るようになるなんて。勿論それは中学生だった和樹が用意できる金額ではなかったが未だ個人で自動車を持つことなど夢のような時代であり、月賦(ローンのことを月賦といった)で無理をすればなんとか普通の勤め人に手が届きそうに思えるものは二輪車だった。オートバイなら必要な金額を少し現実的に想像することができた。その金額と比べて驚くほど小さな数字だったのである。

 その整備担当の人とはその後も親しく言葉を交わす機会があった。にこにこして優しい表情でいろいろ話をしてくれた。その人は他の大人と比べて言葉が少し変だった。発音やアクセントが違っていた。しかし和樹にはそれがむしろ楽しかった。和樹はその人が好きだった。吉雄のトラックの助手席に乗って会社へ行く度に、その人のいる整備コーナーへ行って整備を見学したり話を聞かせて貰ったりしていた。いつも手を機械油で黒くしながらトラックを分解修理していた。
 そんなある時、ふとその人の発音やアクセントの違いを『朝鮮人ってこんな発音をするのかな』と思ったのである。和樹は世間の大人たちの話から朝鮮半島出身の人が京都にも沢山いることを知っていたが、決して現実味はなく自分の生活空間と重なり合っているとは想像できなかった。中学生だった和樹は学校で教えられている『いつも相手の気持ちを考えなさい。理由のない差別は許されません。』という生き方に強く魅かれていた。和樹が親しく話すようになったその人を朝鮮人みたいだと感じたときも、その人が朝鮮半島出身の人かもしれないとは毛ほども想像しなかったのである。時には街で白いチマチョゴリを身に付けた女の人たちを目にすることがあった。それは不幸があった時に葬儀に参列する為の服装なのであるが、それを知らず和樹は朝鮮の人の民族衣装はあのように白いものだと誤解していた。

 ある日、会社の事務室でその整備担当の人と事務をしている女性社員が1人いる時、和樹はいたずら心を起こした。親しく思っているその整備の人に
「朝鮮人!おかしな言葉やないか……帰ったらどうや……」もっと何か言葉を投げつけたはずだ。軽い気持ちだった。その人を朝鮮半島出身だとは夢にも思っていなかった。和樹としてはちょっとした悪戯だった。発音やアクセントが朝鮮人みたいだと思ったにも拘らず、あくまで「朝鮮の人に似ているかも」としか考えなかったのである。その人の表情が急に強張り机にあった小さなものを投げつけてきた。和樹はそれでもまだ言葉を投げつけた。その場にいた女性事務員の表情も硬くなり黙り込んでしまった。そのあと数日して事務室でその整備係の人が吉雄に何か語気荒く言い募っているのを離れた所から目にした。吉雄は短くそれに応えていたようだった。
 そのことがあったあとも和樹は幾度も吉雄の会社へ行くことがあった。そしてある日いつもの整備コーナーに中古のルノーが置かれているのに気がついた。ルノーは現在は乗用車部門から手を引いた日野自動車がフランスのルノーとライセンス契約をしてノックダウン生産をした国産のフランス車である。

 当時はトラックが道路を走る自動車の大半を占めていて乗用車は滅多にない時代である。整備コーナーに置かれていたルノーは薄茶色に塗装されていた。美しい色とはいい難く地味で殆ど光沢がなかった。ボンネットが開けられていてエンジン部分が露わになっている。機械が好きだった和樹は剥き出しになって回っているエンジン部品を見ているうちに好奇心に抗い難く手を触れてしまった。するとカチャッという音がして何かが動いた。確かに触る前とは違う状態になった。壊してしまったかも知れないと思うと怖くなった。そして黙ってその場を立ち去ったのである。
 数時間後ルノーがどうなったか確かめたくなり整備コーナーへ戻った。やはりボンネットは開いている。恐るおそる覗きこんでみた。なんとなく和樹が触る前の状態に戻っているように見える。少し安堵したその時、後ろから罵声が飛んできた。
「お前がこの車、触ったんやろ!勝手に触りやがって、…勝手にここら辺のもん触るな、今度そんなことしたらお前などぶん殴って二つ折りにして…」整備担当の人は恐ろしい剣幕で和樹を怒鳴りつけた。和樹は怯え小さくなってその場を去った。

 そのことがあってから整備コーナーへ足を向けることはしなくなった。それまでにこにこして話してくれた整備の人が言葉を交わさなくなりルノーのエンジンルームを触ったことで酷く怒ったのは、事務室での和樹の悪戯が原因だということは直ぐに分かった。しかし子供である和樹が立派な大人にいたずらを仕掛けたことで腹を立てているのだとしか考えなかった。和樹は体つきが小さいので幼く見られることが常だったが精神的にも非常に幼かったのである。
 それから数ケ月経って、母方の叔母夫婦が手ごろな車を探しているという話がもたらされた。当時は車は立派なステイタスシンボルだったので叔母夫婦が車を探している話は直ぐに親戚に伝わった。吉雄は会社に置かれているルノーの話を叔母に伝えた。譲渡についてどのようなやり取りがあったのか和樹には分からないが余り日をおかずルノーは叔母夫婦のものになった。

 昭和三十年代半ば、中古車を商う店など少なく、また中古車であっても車を探そうとする人は高収入の限られた人たちだった。叔母の配偶者は勤務医であり経済的余裕があった。会社の整備担当の人も中古店へ持ち込むよりも個人が直接買ってくれる方が有利だったに違いない。
 ルノーが叔母夫婦のものになったあと和樹が遊びに行くと、時々助手席に乗せて貰うことがあった。そのルノーは現在の感覚ではかなりくたびれた車であるが当時は車を所有しているだけでずっしりしたステイタスである。
 叔父が「一緒にドライブするか」と声を掛けてくれた。自家用車に乗せて貰うのは初めての経験だった。ワクワクした。ルノーは叔父の勤務場所である大阪の北保健所に置かれていた。叔父は和樹を助手席に乗せて車を西へ走らせた。兵庫県へ少し入った辺りまでドライブして戻った。電車やバスのように運行時刻に縛られることなく自由に何処へでも行ける自家用車に初めて乗った。その日の夕食のあと叔母と叔父はルノーのことについて楽しそうに話題に上せていた。和樹は助手席に乗せて貰った興奮が冷めやらぬままに2人の話に耳を傾けていた。その時叔父はルノーを譲り受けた吉雄の運送会社の整備担当の人との交渉について話題にしていたのであるが、一瞬間をおいたあと
「朝鮮人やな……」と口にしたのだった。それを聞いて和樹は雷に打たれたように体が硬直した。蒼くなり頬が冷たくなるのが分かった。そうだったのだ。あの整備担当の人は発音とアクセントが違っていた。深く考えずに、いや少し考えれば直ぐに分かった筈なのに、和樹は悪戯をした。軽い気持ちだった。まさか本当に朝鮮出身の人だったとは。なんという迂闊で思慮の無いことをしたのであろうか。戦前から祖国を離れて辛い経験を重ねたであろうことまでは少年の和樹には未だ朧にしか想像できなかったが、和樹のような子供に差別的なからかいを受けた人の気持ちを考えると恐ろしい思いが湧きあがってきた。後悔した。幾度もいくども深く後悔した。
 あの人がルノーのエンジン部品を触ったあと酷い剣幕で和樹を睨みつけ怒った理由をその時初めて理解した。和樹は余りにも幼稚だった。そのあと和樹は整備担当の人に会うのを避けた。自分の気持ちのままに謝罪する勇気がなかった。そして中学を卒業してからはトラックの助手席に乗ることもなくなり吉雄の会社へ訪れることもなくなった。

 和樹は大阪の郊外にある大学に入り、大阪で下宿生活をしていた2年生の夏に普通免許をとった。大正区にある自動車学校へ国鉄環状線で通った。その当時は路上教習がなく仮免許申請もなく1ヶ月ほどで卒業できた。高槻市近郊にある免許試験場で筆記試験を受けた。免許を取得しても乗用車の運転席に座ることなど夢のまた夢だった。それでも自動車を運転したい思いが募った。
 和樹は大阪の阪急電車の南方駅近くにあった小さな運送会社で運転手のアルバイトをした。経済成長が本格化しつつあり徐々に車が増え始めた大阪の街をトラックに荷物を積んで走った。その頃、学生仲間では少しでも大きいトラックを運転することが自慢であった。アルバイトではマツダE2000という四輪トラックを運転した。2トンのロングボディ車だった。最初、運転席に座ると荷台の端が霞むほどに遠く感じた。

 普通免許を取得して二年ほどした頃、京都へ帰っていたある日、吉雄が
「乗用車に乗って見たいか」と言った。和樹は突然そう言われて、そんなことができるのかと訝ったが勿論「うん」と答えた。その日吉雄に連れられて路面電車に乗り左京区の『高野』という停留所で下りた。電車を下りて数分歩くと右手向こうに自動車整備工場が見えた。昭和40年前後、整備工場は何処でも現在のようにきれいな佇まいでなく、辺り一面錆や機械油で汚れていた。そのあまり大きくない整備工場に近付くと主人が背を向けて作業をしている。吉雄が友達に対するように親しく声を掛けた。その修理工場の主人は以前吉雄の運送会社で整備係をしていたあのルノーの人であった。思いがけない人に会って懐かしかった。だがあの時の事件を思って和樹は一体どのような顔をしていいのか分からず、その場に黙って突っ立っているしかなかった。しかしその人は近付いてくると満面に笑みを浮かべて懐かしそうに
「大きゅうなったもんやなぁ。わしらも年取る筈や」と昔のままの訛りで声を掛けながら和樹をじっと見つめた。とても優しい顔だった。和樹は黙って頭を下げて挨拶した。伝えるべき言葉がある筈だったが、その勇気が出なかった。6、7年の歳月が経っていて工場の主人が昔のことを忘れてくれたのかも知れないという甘えもあった。

 吉雄はそんな和樹の心などまるで知らないように整備工場の片隅に止めてある乗用車を指差して「おい、あの車ちょっと貸せや」と言った。工場の主人は「あぁ、いや、あれはもう直ぐ取りに来るんや。そやなかったら貸すんやけど」「そやけど、お前これの免許…」という。当時吉雄は自動三輪の免許だけで四輪車の免許がなかったのである。吉雄は「これが免許とったんや」と和樹の方へちらっと目を向けた。修理を依頼した人が間もなくやって来るというので乗用車を借りることができず、吉雄は昔整備コーナーで仕事をしていた仲間としばらく世間話に興じていた。
 やがて初老の夫婦がやってきた。工場主は殊更に愛想良くもせず修理を終えた車について簡単に説明した。そしてその乗用車は走り去っていった。
 あの時代は整備に入庫した他人の車を友達にちょっと運転させることは珍しくなかった。何事も現在のように厳格に考えられていなかった。

 その後和樹は関西を遠く離れてしまった。今でもあの整備係の人が不意に記憶に甦ることがある。その度に自分の悪戯をきちんと謝罪しなかったことと
「僕は本当はあなたのことを知らなかったんです」と伝えることができればよかったという想いとに捉われる。そして知らなかったとしても理不尽なからかいを人にぶつけたことだけで十分酷い行いだったと思い返している。和樹にとってあの事件は間違いなく大きな心の糧になっている。

 
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