39犠牲のおかげ

ていいちOTP

  今年(2013年)は梅雨明けが遅く訝しく思う日々が続きました。また梅雨明け前に特徴的な激しい雨の被害が発生して、地球規模の天候に異変が生じているかのようでした。下越地方では8月近くになってやっと梅雨明け宣言がありました。しかし日々続く鬱陶しい雨の季節が終わり“夏”の陽射しに何やら期待を持つことができたのは若い頃のことで、今では梅雨明け後の猛暑も恨めしく、暑さが和らぐのをひたすら待つのが常になりました。秋から春まではあれほど心弾んだ明るい太陽の陽射しも秋が来るまではじっと我慢をするものに変わります。

 暑いばかりの立秋が過ぎ8月の半ばになるとメディアがこぞって組む毎年恒例の終戦記念特集番組が並びます。戦災経験者や、戦場経験者、それに混じって学者なども自分なりの経験と考え方を披露します。戦後68年も経た今では、その誰もが高齢者です。毎年戦争を経験した人の数が減って戦争を昔話のように感じている若い人が社会の大方を占めるようになりました。それは政治家も例外ではなく戦争を肌で感じた人はどんどん少なくなっています。

 数年前まで、日本が非科学的非合理的な戦争を強行したのは政治家と文民統制のない軍の指導者、それに戦争で利益を得ることができる企業に属する人たちだけと思っていました。しかし実は直接戦争で利益を得るわけではない人たちまでもが負けることなど夢想もせず戦勝ムードに酔っていたのです。戦後の月日を重ねるごとにNHKほかのメディアが“指導者”ばかりでなく“庶民”も社会を覆う戦時の“雰囲気”を否定しなかったという内容の番組をオンエアするようになりました。そして合理的にものを考えようとした人は官憲に迫害されたばかりでなく、同じ庶民からも“非国民”として“村八分”にされたのです。

 日本人が“科学的・合理的”思考よりも場の“雰囲気”に流され易いのはその昔だけのことではありません。日本人は場の雰囲気に異を唱えることを良しとしないばかりか“悪いこと”と感じています。理屈抜きでそう“感じて”います。仄聞ですが米国では周囲と違っている考え方を尊重するといいます。場の雰囲気に対する異論を、少なくとも検討に値すると受け止める態度がよしとされているようです。

 戦争という“極限の殺し合い”をするのに合理性と対極にある精神論ばかりで“臣民”を鼓舞したというのは信じられないことです。中野孝次さんの著書に「兄がインパール作戦で亡くなり、云々」という記述がありますが、まさに合理性を無視し精神論ばかり優先させた作戦だったと記述されています。おそらく他の戦場でも敗色が濃くなるほど、ますます精神論が指導者を虜にしていったのでしょう。そのために多くの戦場で命を落とした人たちは気の毒というほかありません。

 毎年ニュースの種になる靖国神社への閣僚の参拝も、A級戦犯を合祀したことが国際的な問題になる理由です。A級戦犯が合祀されていなければ閣僚の靖国参拝は問題にならなかったでしょう。しかし政治家にとっては戦犯といっても“先刻までの為政者や指導者”であり、靖国神社に祀られている“仲間”から外すことができなかったに違いありません。これは見方を変えれば戦争遂行と、その結果の重大性への反省が足りなかったともいえます。

 日本国内の社を日本の閣僚が記念日に参拝してもしなくても外国からどうこう言われるのは筋違いで合理的ではないと思います。しかしそうであっても近年韓国や中国の経済力が向上し日本経済とのつながりが極めて密接になっていることを思えば、国際的物議を醸す参拝は間接的に国益に悪影響を与える行為になります。
 毎年韓国と中国が問題にしてきましたが、何となく年中行事のような感さえします。しかし昔はともかく現在は韓国や中国に与える影響を軽視できないと思うのです。
 そもそも国際的な問題は当事国の経済力を背景にしながら互いに最大限の国益を見越し、落としどころを判断しています。そして水面下では双方の官僚たちが相手の軍事力の規模と動向も窺っているに違いありません。外交の場では優秀な官僚や外交官たちが高度な合理的思考を駆使して活躍している筈です。外務省のラスプーチンと称された元外交官、佐藤優さんの著書を読むと相手国のキーパーソンなどに接する際には精神論が入り込む余地があるそうですが概ね合理性が無視されるようなことはないと思います。

 ところで毎年8月15日前後になるとメディアや新聞紙上で読んだり耳にするフレーズがあります。それは年若い人たちが特攻隊で命を散らしたことや南方の戦線で悲惨な戦死をした人たちの悲劇を語るのに「お国のために命を捧げた人たちのお蔭で、今の日本があることを決して忘れてはならない」というフレーズが使われることである。このフレーズを聞くたびに“…お蔭で…”の部分が気になります。
 先日の新聞に「…人たちの犠牲の上に…」と記述されていた。これなら歴史的な流れの中で過去の戦争があり、悲惨な犠牲もあったと読めます。
 当時の日本は好戦的な“雰囲気”が強く醸し出されていて合理的な思考を持つマイノリティーは公権力の合法的?リンチに合う危険があり沈黙せざるを得なかったという背景もあります。

 当時為政者や幹部軍人が非合理的精神論にまかせて、兵士の命を召集令状の葉書の料金に例えるなどしながら、無謀に戦線を拡大し、敗色が濃厚になっても本土決戦などと、日本人全員を決死隊の如くに扱おうとしました。犠牲になった人たちは個人としては尊い犠牲に違いありません。でも俯瞰すれば、指導者がもう少し科学的・合理的に判断していたなら十分避けることができた犠牲でした。戦争は外交が究極的に姿を変えたものであり本来もっとも科学的思考を必要とするものです。だからどうしても戦後の日本の在りようが「…人たちの犠牲のお蔭で…」とは思えません。

 「世界史的に過去を振り返れば経済力と強力な軍事力を持つ欧米列強はアジアだけでなく世界各地を植民地化しています。そのことを考えれば日本が朝鮮半島や中国東北部、それに東南アジア、ニューギニアなどへ“進出”していったのは、それほど特異なことではなく、時代が少しずれていただけである」という考え方もあります。
 しかし「時代」というのは現実の世界情勢であり、過去の時代の「作法」そのままに戦を繰り広げたのは致命的な時代錯誤だったのではないでしょうか。

 最後に…、物心ついたときには既に戦後であり、今思えば信じられないほどに貧しく厳しい暮らしではありましたが、もはや戦争は大人たちが語る昔話となっていました。祖母に連れられて街の〈公設市場〉へ行くと、其処ここに片脚・片腕を失くした傷痍軍人が物乞いをしていいました。私にはそれが具体的な戦争の傷痕でした。京都はたまたま空爆を受けなかったので焼け跡はありませんでした。そんな戦争を具体的に知らない者がこのようなことを書くべきではないという人たちもいるかも知れません。
 確かに戦後68年を経た現在でなければ書くことに躊躇いがありました。でも現在は為政者も官僚も教師も、もはや“戦争”を知りません。
 そして戦争の記憶がまだ新しかった頃、戦争を肯定する考えを持つ人たちが
「この戦争や原爆投下など総てのことは将来の歴史家が判断を下すであろう」といったことを覚えています。当然、将来の歴史家は過去を経験できません。そう考えれば戦場の悲惨も東京下町の絨毯爆撃の残虐も原爆の悲劇も経験してはいず歴史家でもないのですが、戦争について考えを述べても、あながち非難されないと思います。


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