36 音  楽

ていいちOTP

  もう30年ちかくも昔、職場で10代の若い人たちにベートーベンの交響曲第6番のことについて話したことがありました。『田園』と称されるその美しい音楽に初めて興味を持った経緯を話したのです。しかし私の話をきいて一瞬ポカンとしたあと「…へんな子供だったんだぁ〜」と言われてしまいました。

 戦後10年あまり経った頃で世間には未だ復興への焦りのようなものが漂っていました。周囲に同年代の子供がいなかったせいか学校から帰るとラジオに耳を傾けることが多かったのです。ラジオだけが日常を離れた広い世界へつながっているように感じていいました。
 当時、〈ラジオ京都(局名は『近畿放送』を経て現在(2013/6)『KBS京都』)〉では夕刻に『喜ばしきおとずれ』という番組を流していて、それを楽しみにしていたのです。番組名から想像できるように、それはキリスト教の布教を目的としてものです。まさか中学生になったばかりの子供が宗教的な興味を持ったわけではありません。そうではなく、番組の冒頭に美しい音楽が流れていて、それを聴きたかったのです。それを聴くとまるで突然雲の上にいるような、ふわりとした心地よさを感じました。

 その美しい音楽がベートーベンの『田園』だと知るのは半年もしてからでした。それまではラジオの番組を作る人が創作したテーマ音楽だとばかり思っていたのです。しかしレコード店で手に入れることができる音楽なら自分の手元へ置けます。
 簡単な演奏装置を手に入れレコードを買うのはずっと後になるのですが、好きな“音楽”を手元に置けると思うだけで胸が膨らんだのです。そんな30年ちかく昔の経験を若い人たちに話したのです。

 リタイヤして数年経ったころ妻がお友達と一緒にカラオケを楽しむようになりました。お友達の都合が悪い時など、誘われて一緒にカラオケハウスへ行くこともあります。妻は演歌や優しさのこもった歌などを好み、気持ち良さそうに歌っています。歌っている姿は楽しそうで、見ていて微笑ましいのですが、じつは自分は妻ほどには雰囲気に溶け込めないので残念でもあります。私はやはりクラシックかそれに類する音楽が好きなのです。
 妻はテレビでソプラノ歌手などが歌っているのを見ると、如何にも窮屈そうな表情をみせ
「かしこまってカッコつけているみたい。上品ぶっているようで嫌だ」と口にしたりします。ベートーベンの交響曲など、リラックスするどころか肩が凝りそうで御免こうむりたい…らしいのです。
 嗜好の偏りは誰にでもあると思いますが妻のクラシック音楽に対する感じ方は食わず嫌いなのだと思います。
 妻のような人を、それと知らずクラシック系に近づけてくれたのは秋川雅史さんの〈千の風になって〉です。秋川さんの歌声を聴けば、演歌系の歌唱とはまったく違うことが誰にでも分かることでしょう。

 “芸術”というと畏まってしまう人が多くいますが音楽でも絵画でも彫刻でも、観たり聴いたりして心安らいだり楽しくなったりするのが芸術です。それはおそらく人類始まって以来変わることがなかったでしょう。
 “芸術”という概念などなく日々の生活が精いっぱいと想像できる原始の時代でも、ふと鳥のさえずりに心を傾けたり、そよ風が梢を鳴らす音に安らかな気持ちになったかもしれません。それは人々が芸術と意識していなくても“音楽”の原初の形に違いありません。
 或いは嵐のあとの澄んだ空気の向こうに陽ざしに輝く険しい山岳を見たとき美しさに息をのんだかも知れなません。それは人類が遥かな未来に“絵画”を生み出す感動に違いありません。そう考えると芸術を堅苦しいものと感じたり逆に高尚なものと感じたりするのは全くのナンセンスだと分かります。

 音楽のジャンル分けについて正確な知識がありませんが、演歌などの流行歌とクラシックとでは、心楽しくなるのは同じですが、音楽の質が違うと思います。もちろん高尚と俗などという傲慢な評価のことではありません。
 演歌や流行歌には歌詞があります。楽曲と詩が相まっています。クラシックは楽曲だけのものが多いのです。ベートーベンの第九番は合唱がついているし、オペラなどは台詞と歌詞が一体となっているので一概には断じられませんが概ねそんな風に理解してきました。またオペラの序曲などで意味が理解できない場合には“歌声”も楽器の音と同じに聴いていることがあります。

 ラジオ番組で〈歌のない歌謡曲〉というのがあります。これは歌謡曲を器楽演奏だけで数局放送する番組です。番組で放送される音楽を聴いていると通常の歌詞のある曲とはかなり違う印象を受けます。
 よく知っている曲なら器楽演奏だけでも“詩”が自然と想起されるのであまり違いが感じられませんが、そうでない曲の場合は違う曲かと感じる時もあります。
 妻が時々「いい曲だから聴いてごらん」と勧めることがあります。聴いてみると同感でき、好い歌だと思う曲ですが、どうやら妻がよい歌だと感じる曲は“詩”が感動的であることが多いようです。感動的な歌詞が音楽にのせられてなお一層心揺さぶられる作品にできあがっているのでしょう。

 それに対して楽曲だけで作品が構成されるクラシックは歌詞によって楽曲から受ける印象が変わるということがありません。日本語の“詩”がないので自由気ままに日々の暮らしに重ね合わせて楽しむことができます。ふと音楽の解説を読んだりすると、その作品が書かれた意図と自分がそれを聴いて思い描いた世界とが大きくずれていて意外な感じがすることもあります。その場合でも聴き方が悪かったなどということではありません。芸術は概ね創る作家の意図が観賞する側に正確に伝わるのを期待できないものだと思います。むしろ正確に伝わらなくとも鑑賞した者が心安らいだり、なにか強く心に響けば、それで大きな価値があるとしてよいものです。

 流行歌とクラシックにはそのような違いを感じるだけですが、それでも世間にはクラシックを敬遠する人が数多いようです。クラシックは敷居が高いという誤解もあります。テレビで流される商品のCMのバックにはクラシックが用いられていることが多いのですが視聴者はそれと意識しないで心地よく聴いていると思います。

 流行歌とクラシックの違いを敢えて卑近なものに例えれば、“ぼた餅”と“たい焼き”の違いです。餡子が好きなのでそんな風に考えました。ぼた餅は見ただけで美味しそうな餡子が見えるので、すぐにも食べたくなります。たい焼きは食べた経験がなければ、見ただけでは餡子が見えません。何が入っているのかと手を伸ばし、食べてみて初めて中に詰まっているのが美味しい餡子だと分かります。
 中身が餡子だと知れば次からは餡子が見えなくても手を伸ばして食べたくなるでしょう。なかには、餡子は外から見えているのが本当で、食ってみなければ餡子だと分からないなんて不愉快だという人もいるかもしれませんが、そういう考え方も当然“あり”です。

 いずれにしても、どんな芸術でも高尚とか低俗とかいうことはあり得ず、ただ好き嫌いがあるだけです。これは絶対の真理です。

space
36 音  楽
inserted by FC2 system