33 富士山と桜と

ていいちOTP

  この下越地方にも暖かい陽ざしが射す日が増えてきました。つい先ごろまで重い灰色の雲が空を覆っていたのですが3月も下旬を迎えると急に空にすきまができ青い空が開きはじめます。そして春の温もりとともにあちこちで花々のつぼみが開きだすのです。春は花の季節です。

 日本海側の積雪のある地方では雪が消えると一斉に草花が芽吹き、花を咲かせるのですが全国的には“花”といえば何といっても桜です。天気予報でも“桜前線”が報じられ列島を少しずつ北へ移動するのを教えてくれます。またネットでも各地の桜の名所を紹介し、開花の様子を日を確認できるほどです。桜は日本を象徴する“花”です。

 日本を象徴するといえば外国人からは『ふじやま、げいしゃ』というのが一昔前なら定番でした。もちろん〈富士山〉と〈芸者〉です。富士山が日本の象徴というのは誰にも異存がないでしょう。外国人には芸者が富士山と同列というのは訝しいですがご愛嬌です。桜と富士山はほとんどの日本人にとっては母国の象徴なのですが、そうでない日本人がいないこともないのです。どんな日本人でしょう。なにも最近帰化した外国出身の日本人というわけではありません。

 数年前、ラジオの文化講演会を聴いていたとき講師の方が概ね次のように話していたのを覚えています。
「象徴というのは特定の社会の中で“文化として”学習した結果なのです。それが証拠に子供は新幹線の車窓でとつぜん富士山が現れても、表情を変えずただ眺めているだけです」
 それを聞いたとき、とつぜん子供の頃を思い出しました。幼児のころから中学生半ばまで京都市の『上京区大宮寺ノ内上がる』という辺りに家がありました。大宮通と寺ノ内通りの交差する処から北の辺りです。実際の感覚は鞍馬口通りに近かったのですが。その辺りは古くからの商店街になっていて町内会の活動も活発でした。
 毎年春になると遊覧バスをチャーターして桜が咲くポイントへ行き町内お花見会をやっていました。当時観光バスを“遊覧バス”と呼んでいて、このバスの呼称が開放感あふれる非日常のイメージと結びついていました。桜の木の下、数十人が宴を催せる場所へ移動するとゴザなどを敷いて雰囲気を盛り上げて楽しむのでした。

 大人たちが桜の下で食事をしたり酒を飲んで盛り上がっている昔の光景が記憶に残っているのですが、小学生だった私にはその光景といっしょにある種の訝しい思いが残っています。それはおそらく私だけではないと思いますが子供にとってはほとんど白く見えるだけの桜の花は、チューリップなど春のカラフルな花と比べると“美しく”ないというのがその理由だと思います。また桜の下で酔っ払いが醸し出す喧騒も子供には楽しいものではありませんでした。なぜ白いだけの花を大人が喜んでいるのか全然理解できなかったのです。

 富士山は独立峰で周囲に似た高さの山がなく成層火山であるため裾野が広大になり、どこから見てもほぼ同じような美しく気品あふれる姿をしています。それは日本人の心に母国の象徴として刷り込まれています。殊に上部に雪をいただいて青空に輝いている姿が素晴らしいです。
 しかし文化講演会の講師の方の言葉のように、子供には富士山は姿が単純すぎると思います。富士山を美しいと思うには周囲の大人たちが感嘆の声をあげるのを幾度も学び、それなりの感性が育ち、ある程度大人になるのを待たなくてはならないのです。子供には独立峰よりも例えば上高地から望む北アルプスの映像の方が雄大だと感じられるでしょう。北アルプスの方が遥かに山岳への興味をそそるに違いありません。

 もう一つ富士山といえば気になることがあります。夏山シーズンになると富士登山の人々が引きも切らずに頂上を目指すことです。日本の象徴である最高峰へ一度は登りたいと願う人が大勢いるのです。富士登山の様子はテレビで放映されることも多くなじみ深いですが、緑がまったくなく一面赤茶けた斜面に整備された“登山道”を登るありさまは恰も“群衆が押し寄せる”かのようです。富士登山は山岳の自然を楽しむというのではなく、一度は日本の最高峰に立ちたいという観念に憑かれているように思えます。

 象徴とは言えないまでも日本人の主食である[白い御飯]も日本人が深い拘りを持っているものです。近年ではコメ離れなどと言われていますが、それでも御飯が日本人の主食であることは間違いありません。
 学生時代に御飯について思いがけない経験をしました。それまで考えたこともなかった経験でした。
 当時、学校の近隣に部屋を借りていました。食事は近辺の食堂や校内の学食とよぶ食堂で摂っていました。学食は一般の食堂よりも安く腹を満たすことができました。「きつねうどん」が25円でした。「とんかつ定食」にはどんぶり飯と揚げたてのトンカツがついてきました。ご飯の量も満足していました。ところがある日そのどんぶりの御飯について“発見”させられることになります。

 学校では週に一度ゼミがありました。ゼミでは5・6人の学生が先生の研究室で授業を受けていました。その日、先生である教授と一緒に助教授や講師が数人参加していました。授業が終わったあと教授は
「今日はみんなでこれから飯を食べよう。学食に予約しておいたから、もうすぐに届くよ」といいました。私たちはなんとなく堅苦しくも感じながら学食から食事が届くのを待ちました。数分して食事が届き、教授室での昼食会が始まったのです。特にご馳走ではなく、いつも食べているものと同じです。
 ところが御飯を口に入れて驚きました。いつもとは全く違う味がしたのです。口当たりが別物でした。いつも感じたことがない御飯の薫りがしました。美味い!その瞬間、学生が毎日食べているコメは学生向けの低品質だと悟ったのです。あるいは学生が食べていたのが普通で、教授からの注文などには高級なコメを別に炊いていたのかもしれません。いずれにしても普段は学生の口には入らない高級な品質のコメが用意されていることを知ったのでした。
 そして、しばらくのあいだ、学食が主食のゴハンを相手によって使い分けるのは不正ではないかという憤りが残ったのでした。

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