31 スポーツ強豪校

ていいちOTP

 今朝(2013/02/13)ネットの見出しに、ちょっと目を引くものがありました。大阪市立桜宮高校バスケットボール部顧問の男性教諭(47)が懲戒免職処分になったというニュースです。結果が重大だったので行政としても最も重い処分にしたのでしょう。また自殺した生徒の親が刑事告訴していると報じられていますので、今後刑事責任も追及されることになります。
 この教諭は28歳のとき正式採用され19年間同じ学校のクラブ指導をしてきたといいます。いわゆるスポーツ強豪校の“熱血顧問”で彼の指導するバスケットボール部も“強豪”としての結果を積み上げていました。そのため恐らく彼は自分の“熱血指導”を疑いもしなかったでしょう。彼は生徒の自殺でショックを受けたでしょうが、まさか懲戒免職になり刑事告訴されるとは想像しなかったと思います。なぜならスポーツ強豪校ではクラブ活動全般で体罰指導が珍しくないとみて間違いないからです。
 それにしても生徒が自殺するほど追い詰められていることに気付かない指導者というのも驚かされます。

 日本ではスポーツの指導者が体罰を使うことは珍しくありません。しかし“結果”を出している指導者をヒーローのように崇めているのは人々の幻想の産物であり“おめでたい”思い込みです。
 以前は選手と指導者にある程度の信頼感があり“熱血指導”をなんとか我慢できたのでしょう。しかし社会も変化し昔と同じ指導では選手の方で我慢の限界を超えてしまったと想像できます。柔道全日本女子の集団告発は大まかにはそうしたことでしょう。

 スポーツの原点、あり方を素朴に考えれば答えはすぐに分ります。スポーツ指導は、指導された者が『明日もやりたくなる』ようなやり方がベストです。それがスポーツの本道です。この考え方は競技において勝利することを至上のこととする選手や指導者には受け入れ難いかもしれません。
 ストイックな人間が多い日本では指導者に一喝されることによって自分の精神がシャキッとするという体験を持つ選手も大勢いると思います。だが思い違いをしてはいけません。他者から一喝されてシャキッとできるのは本人がダラッとしていることを自覚している場合であって、選手たちが殆ど限界まで頑張っている時ではありません。そして選手たちが頑張っている時に、指導者といえども精神論だけで「オマエラはまだ限界じゃない」という権利はありません。

 今迄は指導者が結果を出していさえすれば反旗を翻すものはいませんでした。少なくとも公然と指導者に抵抗する者はいませんでした。柔道全日本女子の選手が集団で柔道界の上部へ告発した時も、柔道界はそうした指導の在り方に疑問すら持たず、柔道の上部組織では選手の告発を握り潰しました。その結果、選手たち15名がJOCへも告発したのです。告発は公けになり園田監督は辞任に追い込まれました。園田監督は夢想だにしなかったに違いありません。
 それにしても選手が集団で自分を告発するほどに信頼関係が崩れていることに気付かないという監督の傲慢さには“何をか言わんや”です。

 現代ではスポーツの目的がその原点から大きく乖離していると思います。楽しく体と心を適度に鍛え『明日もまたやりたい』という思いで練習を終える理想的なクラブ活動では、よほど生来の素質に恵まれた集団でなければ試合に勝てないかも知れませんが、そもそもスポーツは試合に勝てなければ意義がないのでしょうか。
 もし現代のスポーツ活動が学校の名声や選手個人の将来の利得に繋がっている一面があるとすれば熱血指導問題も更に複雑怪奇な問題となってきます。4年ごとのオリンピック招致合戦はスポーツが“お金”と結びついていることを証明していますが、そういうスタンスが学校のクラブ活動にまで及んでいるのかどうか熟考すべきです。

 もうひとつ今回の一連の問題で心配になることがあります。論旨が逆に見えますがそのつもりはありません。体罰で教師が懲戒免職処分という報道は現場の教師には別の心配の種でもあります。決して〈時と場合によっては体罰も必要〉とか〈懲戒免職は行き過ぎ〉とかいうのではなく、生徒が教師を殴っても怪我をさせても指導する立場にある教師の力量が足りないとされ、教師は決して手を出せないとすれば、学校内で良識を欠いた生徒が今まで以上に増長するのではないかと心配になるのです。
 これまでも中学生が注意をした女性教師を刺殺した事件や中学生に暴力を振るわれて教師が大怪我をしたという事例があります。高校でそういう事例がほとんど無いのは義務教育でなく一応“退学や停学”があるからです。

 教師は人を教えるプロだから言葉で教えるのが当然というのは間違っていないのですが現場では虚しい足枷です。学校も社会の縮図であり“社会”においては双方に責任があるのと思うからです。生徒と教師だから“対等”ではありませんが、学校というのは指導する者と指導される者が高度な緊張感の中で数年間にわたって人生の選択肢を探し求める場です。そんな場で教師も生徒も最大限良識をもって互いを尊重する必要があります。

 また学校現場では、理想論は別にして、生徒が先生に大なり小なりカリスマ性を感じる必要があります。何であれ指導を受けようというとき指導者にカリスマ性がまったくなければ継続的な指導が成立しないケースが多いからです。
 もし生徒の中に極端に良識を欠くグループがいたとして、彼らが教師の指導を逆恨みして歯向かったとき、生徒が教師に暴力をふるっても教師の指導力が足りないとされ、教師が生徒を殴れば懲戒免職というなら、彼らにとって教師のカリスマ性は微塵も感じられないでしょう。それはまるで武装した思慮のない子供の前に晒される丸腰の大人のようになります。
 教師はスーパーマンではありません。良識ある生徒、保護者に対してできる限り尽くしたいと願っていますがアウトローグループの前では丸腰になりたくないでしょう。生徒を分けて考えるのは穏当でないかも知れないませんが、これは現実的な思考なのです。

 どんな生徒に対しても教師の生活を捧げ全身全霊を傾けて指導に当たるべきだという教師もいます。立派で崇高ですが間違いなく例外中の例外です。例えば金八先生は皮肉にもカリスマ教師であり、更にドラマのような指導で生徒はついてきません。『金八先生』は絵空事です。

 教師は教員免許を取得して先生という職業についている普通の人です。ただ社会のそれなりの期待に応えようと日々奮闘している人々なのです。教師に権威がなくなったなどと言いますが“権威”は本人がどうこう出来るものでなく周囲の人間がつくるものです。古き時代の“先生さま”も人間的な違いは殆どなく、ただ周囲の人々が“先生さま”の“権威”を認めていただけに過ぎません。テレビなど夢の時代、メディアでの報道が比較もできない世の中だったのです。

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