30_アルバイト

ていいちOTP

 (小説として) 
 私は学生時代に数多くのアルバイトで様々な会社を経験した。アルバイトは生活の為という訳でなく、自由に使える金を得るための気楽な仕事であった。学生にとってバイトは学校にいては決して見られない一般社会を直接見ることができる唯一の機会である。バイト生として会社にいても社員とは異なり恰もテレビドラマを見ているような傍観者的な距離感を伴っているが、それでも未知の体験に違いない。多くのバイト先の中で印象深く思い出される職場の一つに零細な運送会社がある。私はそこで運転手や助手としてしばらく肉体労働をした。

 阪急電車が梅田から十三(じゅうそう)を経て京都線へ分岐するとすぐに南方(みなみかた)という駅がある。その運送会社は南方駅から徒歩で15分ほど西へ戻った処にあった。古い木造のアパートの一室が事務所になっていて隣接した場所がトラックの駐車場になっていた。駐車場といっても舗装もされていず、其処に十台あまりの車両が停められていた。艶のない薄緑色のダイハツ三輪トラックが四台と濃い青色のマツダの三輪トラックが三台あった。その他にマツダE2000というグレーっぽい青の塗色の四輪トラックが三台とトヨエースが一台である。どれも経済成長を続ける日本社会に貢献したトラックである。しかしこれらのトラックのうち営業ナンバーを付けたものは四台だけであとは白ナンバーだった。白ナンバートラックに顧客の荷物を載せるのは違法であるが顧客のほうも目くじらを立てるようなことはなく、むしろ運賃が廉いことを歓迎していた。

 社長は薄くなった髪が白いかなり年配の男で社員に滅多に笑顔を見せなかった。四台の営業ナンバーに倍以上の白トラックを混ぜて経済成長期に業績が見込める運送屋で稼ごうとしていた。彼は昼になると決まって店屋もんのカツどんを注文して喰っていた。食事をしながら幹部扱いをしているお気に入りの社員に話していることがあった。
「わしは戦争中に軍部のやったことに、これっぽっちも批判する気は持っとらん」
 社長は運転免許がなかったのか自身で運転席に座ることがなかった。
 夕刻になるとひと癖ありそうな風体の運転手たちが事務所として使っている狭い畳の上に胡坐をかいたりごろりと横になったりして、社長にその日の仕事の報告をしていた。誰もが、意に沿わない待遇であっても生活の糧を得るために何とか不満を押し殺していた。彼らは社会の階層の底に近い位置を黙って耐えるより他に生きる術がない男たちだった。

 夏の暑さが厳しさを増すと青空が恨めしい。夕刻やっと仕事を終えて事務室で休んでいる運転手たちの話題が酒の銘柄になった。私もその話題に加わろうとしたそのとき中年の運転手が不愉快そうに叫んだ。
「酒は酔いさえしたらええんや。どの酒がええとかあかんとか関係あるか!」と叫んだ。皆がそう思っていた。しかしちょっと背伸びをして酒の銘柄を批評して見たかったのである。だが誰も反論しなかった。皆が現実に引き戻されてしまった。昼食に中年の運転手が広げた弁当にはご飯だけだった。彼は鞄からおもむろにサンマの缶詰を取り出し、缶を開けながら、出前のカツ丼を食べている社長に言った。
「女房がね、家でおかず作るより、これの方が廉いて云うんですわ」
それは缶詰一つのおかずが侘しいというのでなく女房が缶詰を持たせることを合理的な選択だと納得している話し振りだった。
 社長はお気に入りの彼に信頼を寄せていた。その運転手は上品な人柄で教養がありそうだった。しかし他の若い運転手からは人気がなかった。他の運転手の信頼を集めていたのはもう少し若く、みんなの兄貴分といった立場にいる運転手である。彼はごく自然に自分より若い運転手の相談相手になってやり社長に伝える役割を担っていた。
 この運送会社は建設会社や土建会社から仕事を廻して貰うことで経営が成り立っていた。建設現場で必要な資材をその拠点置き場から現場へ運搬するのが主な仕事である。鉄筋コンクリートの構造物を造るのに使用する木製の重いコンクリートパネルや足場の骨組みに使う長尺の丸太をトラックで運んだ。運ぶだけでなく荷の積み下ろしをするため助手席にも運転手を乗せ通常は二人で仕事をこなしていた。

 社長は仕事先に応じてトラックを使い分けていた。安定して仕事をくれそうな大きな土建会社へは営業ナンバーのトラックを使い、小さな会社や先が見込めない会社の注文には白ナンバーを廻していた。三輪トラックは白ナンバーだったがハンドルの切れ角が大きく小回りが利くので運転し易かった。だが足場用の丸太を積んで上り坂を走ると時折ハンドルが頼りなくなることがあった。ある日、私が組んだ運転手が
「おい兄ちゃん、なんやふわふわするでぇ。まぁようある事やけどな」と云う。彼は私が運転したそうにしているのを幸いに助手席に座っていた。私と組むといつも「兄ちゃん」と呼んだ。私の運転の様子を見ながら助手席に座った。
「兄ちゃん、運転うまいやないか」といって目的地へ着くまで運転を任せた。
 三輪トラックのハンドルが利かなくなるのは前輪が浮くのが原因だ。前が一輪で軽いので主に後輪に荷重が掛り、更に後輪から荷台の端までのオーバーハングが長いからである。

 立秋が過ぎても暦の上のこと、厳しい陽射しが照りつけアスファルトの表面が融けるほど暑い日の午後、日陰を見付けて暫くトラックを停めていると、向こうに見える道路を走る三輪トラックの前輪が路面から浮いたり落ちたりしているのが見えた。後輪だけで坂道を上っているのである。高度経済成長のさなか、積載重量を超えているトラックは珍しくなかった。トラックの運転手は肉体的に苦しい仕事である。積荷が軽いと楽であるが建設資材は重量物が多い。

 ある日の午後、事務室には私と別のバイト学生だけだった。ひと仕事終えて事務室で休んでいた。そのとき電話が鳴り社長は暫く応対し、受話器を置くと私たちバイト生二人に
「君らだけしかおらんなぁ。しょがないわ。カシャドリ行ってくれ」と云う。カシャドリとは何のことか分からず戸惑いながら指定された場所まで走り、そこに待っていた顧客を同乗させた。言われるままに四十分ほど走ると神戸の街に入り、国鉄の駅に着いた。同乗させたお客が指さす方に有蓋貨車が一輌だけぽつんと止まっている。カシャドリは〈貨車どり〉だった。貨車の積み荷を倉庫へ運ぶ仕事である。
 その貨車は秋田からプレハブ建築の材料を積んできたものだった。同乗したお客は秋田の建築資材会社から派遣されていたのである。

 私たちは広い駅の片隅にポツンとある一輌の貨車を見て、楽な仕事だと思った。しかし近寄ると有蓋貨車はひどく大きい。貨車の扉を開けて更に驚いた。プレハブ住宅に使うという柱が貨車の天井に触れるまでギッシリ隙間なく積まれていたのである。運賃が貨車一輌単位であることが理解できた。やっと腕を入れる隙間を見付けて貨車から引き出した荷物をトラックに積み込んでゆくと、すぐに荷台に山盛りになった。貨車の方は殆ど荷物が減っていない。貨車一輌に積める量の多さは想像できない程である。
  社長はこの顧客の貨車どりには積荷を汚さないようマツダの四輪車を割り当てていた。この四輪車だけは泥で汚れた荷物に使用しないようにしていた。私たちはトラック一杯の積荷にクレモナと呼ぶ新素材の強靭なロープを使って固定した。そして秋田からのお客を乗せて倉庫へ向かった。重い荷を積み込むのに比べると運転など休憩しているようなものだった。私たちはホッとして走りだした。ところが運転して数分もしない距離に倉庫はあったのだった。がっかりして気が重かった。2トン積みロングボディで五回往復した。私には非常に苦しい仕事であった。それからは社長が『カシャドリ』と口にすると自分が指名されるのではないかとビクビクした。

 くる日もくる日も雲ひとつない青空が続き容赦ない陽射しが降り注いだ。体格に恵まれない私にとっては場違いな職場であったがトラックを運転できることが魅力だった。未だ乗用車を所有している人は滅多にいなかった。軽自動車のスバルが街を走っていたが勿論誰でも買える代物ではない。学生が運転できる車はバイトのトラックか商用車しかなかった。免許のある学生たちのステイタスは如何に大きなトラックを運転したかということであった。その点2トンのロングボディの運転は得意な気分になることができた。

 肉体労働が続くと〈ひるめし〉が待ち遠しくなる。郊外のトラックが走る道路沿いには『めし屋』と書かれた看板を掲げる店が多くあった。店では汚れた服装の運転手たちが背凭れのない丸椅子に腰かけて簡素なメラミン樹脂が貼られたテーブルでめしを掻き込んでいた。食事の献立は値段の割に充実していた。ズラリと並んだおかず棚から好きなものを選んで食べるのである。洒落っ気はないがとても美味い。私は手持ちの金が少ない日は飯と茄子の揚げものを選んだ。簡単な食事だが茄子に醤油をたっぷりかけて飯と一緒に口に運ぶと信じられないほど美味いしかった。絶え間なく汗が噴き出すような労働をしていると醤油だけでも美味いのだと知った。
 やがて夏が終わりに近づき私は運送屋のバイトをやめた。私は自動車が好きで道を歩いていても行き交う自動車が気になった。学生の中には真新しいフォルクスワーゲンで通学している者もいた。それは私には異次元の世界に見えた。普通の学生とっての車はトラックであった。
 二学期の長い授業が終わり冬休み近くになって再び運送屋に電話をした。社長は休みに入ったらすぐに来てくれと云った。私は休みに入る一週間前にバイトを始めた。学校はどの講義も週に一駒であるので一週間で一駒欠けるだけである。それに外国語の授業以外は出席を取らなかった。

 夏休みと同じ重労働が始まった。そんなある日珍しく飛び込みの電話が入った。社長は私にその仕事の助手をやれと言った。きれいな積荷だというので会社に一台だけある汚れものに使わないトヨエースをあてた。トヨエースは他のトラックよりも荷台が短く積み下ろしが楽なのである。組んだ運転手は三十代半ばだった。堺市から滋賀県南部まで建築資材を運ぶという。資材は家の壁に使うものらしく厚さ3cm程の合板で表面が美しく磨かれていた。荷台に全部積み終えると運転席の屋根まであった。運転手がロープで荷台に縛った。
 私はトヨエースを運転させて貰った。快適に走った。冬の青空に輝くような風景が流れた。夏と違って冬の青空は心が弾む。助手席の運転手は居睡を始めた。大阪を抜けて国道一号線を走り京都へ近づき東寺の五重塔が見えた頃、突然トラックがふわりとした。次の瞬間後方からガタンっと大きな衝撃がありトラックが傾いた。助手席の運転手が飛び起き叫んだ。
 「なんや、どうしたんや」そして左前方を指さして
 「あんなとこにタイヤが転がってるがな……そういうたらこのクルマ、整備に出したとこやて云うてたで」と案外落ち着いている。見ると左前方の歩道の上をタイヤだけが走っている。ホイールボルトが十分に締め付けられていなかったのだ。郊外の国道で歩行者がいなかったのが幸いだった。
 やむなく公衆電話を探して近燐の整備工場に修理を依頼した。タイヤが外れるまでの間にボルトとホイル穴が互いに磨滅変形してしまっているので簡単な部品交換では済まなかった。修理のあと運転手が積荷の荷崩れを直した。よく磨かれた合板は滑りやすく荷崩れしたのである。思わぬアクシデントで二時間近く無駄にしたあと京都を出発した。日の短い時期であり滋賀県に入った時はもう薄暗くなっていて目的の場所に到着した時は建設現場の事務所は施錠されていた。
 「なんとかなると思ぅて来たけど、しゃぁないなぁ。今日は帰るしかないなぁ」運転手が呟いた。

 あくる日、社長は荷を積んだままになったトラックを指さして
 「昨日走ったんやから、一人でも行けるやろ。今日はあんた一人で行ってくれるか」といった。私は一人で前日と同じ道を走ることになった。しかし暫く走ると気付いた。積荷が滑りやすく荷崩れを起こすと独りでは直すことができない。ロープを一旦緩めればロープを強く縛り直すのは難しく、締め過ぎると積荷を痛める危険もあった。私は慎重に低速で走った。後続のトラックが次々と追い越し、私の顔を迷惑そうに覗き込んでいった。
 長い時間を掛けてなんとか滋賀県の建設現場に到着して合板を下ろすと帰りは気楽なドライブだった。京都まで戻ってきて急に昨日世話になった修理工場に寄ってみる気になった。修理工場の作業が興味深く一時間以上も見学していた。そのため運送会社に戻った時はもう暗くなり始めていた。私が戻ると事務所から中年の運転手が出てきて不審な目を向けて云った。
 「なんぼ滋賀県というても君は時間がかかり過ぎてるやないか。何してたんや」ちょっと意外だった。荷物を届ければあとの事は気にしていなかった。しかし修理工場で油を売っていたことは黙っておいた方がいいと考えた。少し不服気に装って
 「そら、あんな滑りやすいもんを載せてるんやさかい、もし荷崩れしたら独りでは直せへん。そやから行くときは三十キロで走ったんです。帰りは六十キロほどで走りました」
 時速三十キロと聞いて彼はそれ以上なにも云わなかった。彼にしても予想できないほど時間が掛ったので事故などを心配したが無事に戻ってきたので安堵したのかも知れなかった。

 大阪は京都のように盆地ではないので底冷えということはないが太陽が陰ると冬の寒さが応えた。その日は重い雲が空一面に垂れ込めていた。仕事は木製のコンパネをいつもの土建会社の資材置き場から高槻近くの現場へ持っていくことであった。私は助手だった。運転手はいつも私を「兄ちゃん」と呼ぶ運転手だった。とぼけたところがあるがきちんと仕事をやる運転手である。彼は背が高く立派な体格だった。木製のコンパネはコンクリートが所々に付着したり前日に降った雨を含んだりして非常に重く、殆ど全部運転手が積み下ろしをやった。手伝おうとすると却って運転手の足手まといになった。それでも彼は機嫌を損ねなかった。

 京都方面へ一時間足らず走ると遠くに現場が見えてきた。そこで小規模の鉄筋コンクリートのアパートを建設していた。大阪への通勤が便利な地域である。高度成長期で大阪のベッドタウンがあちこちに形成されてはじめている頃だった。
 「兄ちゃん、ロープ片付けといてくれや」といって運転手はコンパネを次々と下ろし地面に積み上げていく。資材置き場を出るとき空を覆っていた重い雲はいつの間にか薄くなり、所々に青空ものぞいていた。帰りは快適なドライブになる筈だった。しかし私たちが戻ろうとしていると、現場で監督をしている男が運転手を手招きした。運転手と一緒に近寄ると
 「あのなぁ、ここのやつなぁ、○○へ持って行ってくれへんか、えらい済まんけど頼むわ」運転手は一瞬戸惑ったが直ぐに
 「あっ、えぇよ。分かった。」と短く答え、表情をころした。現場の男はさらに
 「ほんでなぁ、荷台に低ぅ積んで、ここ出るときシート被せといてぇな」と云った。男が運び出して欲しいと云ったのは現場に置かれているセメント袋である。アパートの建設に使う筈のセメント袋の一山をくすね盗るのであった。運転手は50キロあるセメント袋を肩に担ぐと次々と荷台に並べた。あまりに軽々と作業をするので私は声を掛けた。
 「すごいですねぇ、そんな重たいもんを…」彼はそれに答えなかった。セメント袋はどのメーカーでも五十キロと決まっていた。私も持ち上げようとしたことがあったが到底できない仕事だった。重い袋の中央を持ち上げようとすると両端がグニャリと下がる。私のような体格では肩に担ぐことなど到底できない。
 私が思わず声を掛けたのはそんな仕事を軽々とやってのける運転手に驚嘆したからでもあるが、これほど多くのセメントが使われないままにその住宅ができあがるのを不安に思い、その犯罪行為への慄きを表情に出さないよう誤魔化す為でもあった。そんな窃盗行為は郊外のあちこちに出現するベッドタウンの現場でも行われていたに違いない。私たちは積み込んだセメント袋の上にシートを掛けると何事もなかったかのようにその現場を後にした。雲が薄くなって辺りはますます明るくなっていたが私には重苦しい違和感があった。

 私は連日の肉体労働に音をあげそうになりながらもトラックの運転ができる魅力に惹かれて運送会社に通った。そして暮れも押し迫ったある日の夕方、社長が運転手を集めて云った。
 「皆ご苦労さんやったなぁ、今年もあとちょっとやさかい頑張ってや。今度十二月△日の仕事が終わったら南で忘年会するさかい皆に飲んで貰うでぇ」
 運転手たちは一様に表情をほころばせた。ミナミというのは御堂筋の南端辺りの繁華な街である。常日頃安酒しか口にできず昼飯のおかずはサンマの缶詰一つというような生活の運転手にとって年に一度の大きな楽しみである。私のようなバイト学生にとっても忘年会に参加できるのは魅力的なことだった。忘年会は会費制でなく社長がお膳立てをして社員を慰労するのであった。

 忘年会当日の夜、ミナミのすき焼き屋へ移動して宴会が始まった。関西ではすき焼きはご馳走の定番である。宴会場には日頃見たことのない上質の牛肉が用意された。社長が仲居の女性に
 「ビールと酒持ってきてくれ」と大きな声を出した。仲居の女性が
 「何本持ってきましょうか」と訊くと社長は不機嫌になった。
 「そんなこと訊かんでも、どんどん持ってくりゃぁいいんだ」と返した。運転手が大勢いる中で社長が酒の量を限って注文したりすれば面子がない。仲居の女性は察しが悪かった。
 広い宴会場の床の間を背にして社長以下三人の運転手が座っている。一人は私が先日滋賀県から遅く戻ったとき咎めようとした人である。上品な雰囲気があり社長は彼を上位に遇したいと考えていた。もう一人は他の運転手の兄貴分として人望がある運転手だ。社長は彼を上位に置かない訳にはいかなかった。
 やがて運転手たちの前に並んだビールの栓が抜かれた。乾杯の音頭をとる為に皆の前に出たのは上座に座っている兄貴分の男だった。彼は一通りの挨拶を述べた後
 「みんな、酒はなんぼ飲んでもええ。そやけど明日の仕事に差し支えるような酒だけは飲んだらあかん」と云った。巧い表現だった。相容れないことを納得せざるを得ない表現に包んでいた。
 乾杯の挨拶が終わったあと皆がいつもは手の届かないような美味い牛肉をたらふく食べ、ビールや酒をたらふく飲んだ。それは運転手たちにとって暮れの大きなプレゼントである。バイト学生とってもバイト先の忘年会は思わぬご馳走にありつける機会であった。
 しかし私は美味い牛肉が僅かに喉に引っ掛った。この豪遊は幾つかの不正な仕事の褒美でもあった。アパートの現場でくすね盗りに加担したことや半数以上の白トラなどが思い浮かんだ。それは違法行為と云うだけでなく人々の命に関わる犯罪も含まれていた。

 私は酒の酔いの中で、ある日の交通事故を思い出していた。その日、運転していたのは同じバイト学生だった。マツダの三輪で大阪北部の豊中駅に差し掛かったとき、前を小さな女の子が横切るのが見えた。学生は咄嗟にブレーキを踏みつけた。『ギー』という大きな音が辺りに響いた。トラックが止まったとき子供の姿は見えなかった。学生は蒼くなって一瞬硬直し、次の瞬間運転席から飛び出ると助手席の下を覗いた。子供が倒れているのが見えた。駅前の交番から警察官が飛んできた。
 「お前ら何やってんにゃ、よう前見てなあかんやないか」学生は振り絞るように答えた。
 「ブレーキが効かへんかったんや」
 「ブレーキの効かんようなクルマ運転したらあかんやないか」
 三輪の下になった五歳くらいの女の子は頭に傷を負っていた。三輪トラックだったので前輪で轢かれずに済んだのである。直ぐに到着した救急車で病院へ向かった。病院で、我が子が突然交通事故に巻き込まれ動顛している母親に、医師が落ち着いた口調で話しかけた。
 「将来傷の処の髪の毛が四・五本生えなくなるかも分からんけど、あとの心配はありませんよ」
 学生は安堵した。一旦子供は家へ戻り、私も助手として事情を聴かれたあと警察官と一緒に子供の家を訪れると母親は強い口調で話した。
 「うちの子は信号が青やったとはっきり云ってますからねっ!」
 小さな子供がそれほどに断言できたかどうか疑わしかったが、異議を挟めば事態が悪くなると予想された。

 その日の夕刻改めてお詫びに訪れた時、会社で兄貴分と慕われている運転手が同行した。彼は子供の両親の前に出て丁重にお詫びの挨拶をしてくれた。事態が十分理解できない女の子は頭にガーゼを張り付け、あどけない表情で私たちをじっと見つめていた。そして三人で近くに駐車してあったトラックに戻る途中、同行した兄貴分の運転手は普段の顔になって言ったのだった。
 「今は丁寧に挨拶しておとなしぃしといた方がええ、けつまくるのはいつでもでけるさかいな」
 事が起こって利害関係に陥った時は互いに探り合うことになるのは避けられない。しかし彼のお詫びの態度とかけ離れた姿に驚いた。私はそれを怖いと思った。

 私はこのバイトで経験したことごとを反芻しながら豪華なすき焼きをたらふく食べ苦しくなるまで酒を飲んだ。目の前のすき焼きには抵抗できなかった。社会人となり長い年月を経ても、その時の自分の姿がふいに思い出されることがある。

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