ていいちOTP

2_カガク?チョウミリョウ
  定年退職を迎えた日、これから毎日自分の好きなことをして過ごすことができる喜びに心が震えるようでした。雨や雪の降る日は好きな本を読んだり思い付いたことをテーマに短文を書いたりして過ごしていましたが、ある日妻が
 「あなた、私が居なくても不自由しないように料理を覚えなさい」と言います。賛同して教えて貰うことにしました。ところがこの料理教室は四つほどの料理のあと頓挫してしまいました。少年時代から理屈っぽい性格で、それが災いしました。料理の手順を教えてくれるたびに「どうしてこれを〇〇するの?」と訊くからです。妻にとってはいちいち理由など考えなくとも当然過ぎる手順なのです。手順ごとの理由など意識しないことが殆どだから説明などするのは面倒で煩わしかったのです。何事でも名人芸は熟練の賜物であり動作毎に論理的に考えたりしません。

 リタイヤしてからは簡単な食べ物を自分で用意することもあります。しかし煮たり暖めたりすれば食べられるようなものが殆どです。インスタント食品を食べることも多いです。3分間煮て袋に入った出汁を投入すると美味しいものができます。
 現在は当たり前のように美味しいものを味わうことができますが昔はそうではありませんでした。中学生の頃まで家庭で食べるうどんは醤油だけの味付けでした。それは美味いものではありません。しかし町の食堂で食べると家では決して味わえない美味しい出汁に驚きました。大人たちは
「うどん屋は昆布出汁を使ってるさかいな」といいます。だから昆布出汁は美味いものだと心に刷り込まれました。
 中学生の頃〈味の素〉が普及してきて我が家の食卓にも小さな瓶が載るようになりました。味の素は我が家にとって高価な品であったらしく母と兄が勝手に協議をして降り掛ける回数を決めるほどでした。私たちにとって味の素は画期的なものです。それまで食堂でしか味わうことができなかった昆布出汁が突然身近なものになったのです。

 味の素はNHKの料理番組では『化学調味料』と紹介されていました。商標の呼称を避けるためです。
 人間が美味しく感じる味を研究して、その化学物質を突き止め工業的に生産できるなんて非常に素晴らしいと思いました。
 その後、鰹出汁のイノシン酸・椎茸出汁のグアニル酸なども工業的に生産されるようになって、三種類を適度な比率で混合した顆粒状の『出汁の素』なども店頭に並ぶようになります。現在はその値段も安くなり庶民が美味しい味を手軽に味わえるようになりました。

 しかしいつの頃からかこの化学調味料を良くないものとして忌避する人たちが現れるようになります。公害による健康被害が出るようになり名称に『化学』を冠するカガク調味料を否定的に考えたのがその理由だったかもしれません。製造する側でもその頃から『うま味調味料』と称するようになります。しかしこの化学調味料を嫌がる人が増えたことは謂れのない風評被害であるように思われてなりません。
 私たちの味覚は、熱い・冷たい・硬い・軟らかいの他の“味”はすべてうま味や苦みを呈する化学物質が舌の味雷細胞に刺激を与えることによって脳に伝えられます。また人間が口に入れるものを突き詰めれば化学物質でないものは皆無です。
 私たちの体もすべて化学物質でできています。水も化学物質である水素と酸素が化合したものです。そんな環境の中で体にできるだけ負担の少ないものを口にする努力をして暮しています。
 化学調味料も豊かな食生活におおいに活用するべきだと思います。殊に私のように『うま味調味料』によって食生活が画期的に豊かになったと考える者は、それが食生活に偉大な貢献をしたと信じて疑わないのです。だから『うま味調味料』に抵抗がないどころか、そのファンになっているのです。

 しかし最近ある新聞のコラムで『何にでも醤油やソースをたっぷりかけて食べる人がいるが、そんなことをすれば素材の味など全然分からないだろうに』という趣旨の話を読みました。目から薄いうろこがはらりと落ちる気がしました。思えば昔からフランス料理はソースで食べるものだと聞かされてきました。しかし美味しいソースで絡めるようにしたなら魚や肉・野菜など料理の素材は舌触りや歯応えしか問題になりません。同じようにうま味調味料を限度まで使えば何を食べても昆布出汁と鰹出汁と椎茸出汁のうま味となり素材の本来の味は隠れてしまいます。そう納得してからはうま味調味料に限らず醤油・ソース・からし類などできるだけ少なくして食べるように宗旨替えをしました。しかしそれでも『うま味調味料』のファンであることは変わりません。

 今では調味料一般の使用を抑えて素材の味を味わいたいと思っています。
 ところでもう何年も前から野菜の青臭い匂いが殆どなくなってきたのはどう理解したらいいのでしょう。また魚が生臭いというので生臭さをできるだけ消すような調理法がよいとされるのも同じように少し不可解なことです。野菜の青臭さも魚の生臭さも間違いなく素材が本来持っている香りの一部です。炊き立てのご飯の匂いだって独特のもので好みがあるかもしれません。しかし私はそういう素材の匂いをひっくるめて楽しんで食べたいと思います。
 
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