29 警察官の犯罪

ていいちOTP

 (以下は2010/4/20事件発生、2013/7/24不起訴、2014/7/17検察審査会が不起訴相当の議決をしています。しかし被疑者は自白をしていて、不起訴の際にも「被疑者は事件に対して何らかの関与を疑われるが嫌疑不十分」で不起訴になっているので、このページを残しました)

 近年警察官の不祥事をメディアを通して知ることが多くなっています。最近(2012/12)では富山県警の警部補が老夫婦を殺害のうえ証拠隠滅のために放火するという凶悪犯罪が耳目を集めています。事件発生から2年9か月して明らかになりました。しかし犯人逮捕のきっかけは明らかにされていません。
 この警部補は昆虫採集が趣味で相当なレベルにあり、その件で新聞に紹介されたこともあるそうです。また学校生徒の保護者を前に教育講演の講師も務めていたというのです。
 この警察官は事件直後に被害者の知り合いということで事情聴取を受けていて事件当日は休日でしたが彼のアリバイを確認してはいませんでした。まさか複数の表彰さえ受けたことのある身内の警察官が犯人とは思わなかったのでしょう。事件の真相解明が待たれますが警察組織を揺るがす事犯ですから“警察”としてはできるだけ早く幕を引きたいに違いありません。

 警察官の不祥事は近年になって頻発するようになったのではありません。昔は表沙汰にならなかったのでしょう。警察に限らず組織が大きくなるほど不祥事によるマイナスイメージで仕事がやり難くなることを恐れるからです。
 警察の仕事は『違法行為』を検挙することです。法治国家では違法行為を取り締まることが国家存続の要です。ではどうして警察官の不祥事が頻発するのでしょうか。警察官は人間としての正義感が希薄なのでしょうか。
 まさか正義感が希薄では警察官は務まらない筈です。警察官は正義を逸脱する行為に対して憤り、それを憎むことが期待されています。警察官は国家がその執行を認めた『暴力』を行使する権限を持っています。国家という存在を突き詰めて考えると〈公的暴力〉であることは間違いありません。公的暴力を行使するシステムのひとつが警察です。暴力を行使する組織であるからこそ正義に従って職務を遂行することが期待されています。

 警察官を志す殆どの人は正義感を胸に将来を展望するでしょう。でも或いは警察官が自らの正義感に従って仕事をやり遂げるのは困難なことかも知れません。なぜなら警察官の仕事は個人によって少しずつ異なる“正義感”に従うのでなく、客観的に文章化された法令に従って『違法』行為を取り締まることだからです。
 条例を含む法令全般はその〈法〉が想定する事犯、即ち“理念”があり、それに従って運用されることが期待されています。当初はその“理念”を殆どの人が正義と認めています。しかし年月が経てば条文が独り歩きを始め、運用如何では“正義”とは言い難くなる可能性もあります。
 警察官の職務は検挙数が多いことで良しとされるとも仄聞します。検挙数が多いことが待遇の向上に繋がるのであれば『法の理念即ち正義に従って…』というよりも『検挙数を増やす』ことを第一義に仕事をするのも無理からないことです。

 法令は想定される事犯に対処する目的で立法府において制定されますが現場の警察官は法令を一人歩きさせたり拡大解釈したりして運用するようになります。誰でも検挙実績を積んで勤務評定を向上させようとするでしょうから。
 法令の運用が市民感覚としての正義から逸脱していたとしても〈法令違反〉であるという事実は揺るがないので抵抗する者には公的暴力が行使されることになります。
 正義感を胸に社会に貢献しようとして警察官を志した大勢の人たちは警察官としての実績を積んでいく間に〈違法行為〉を検挙することが即ち“正義”だと思い込んでゆきます。個人的な正義感に思いを馳せることはむしろ職務遂行に邪魔になる可能性が高いのです。こうして違法であるか否かのみを見定めて職務を続けているうちに人間としての根源的な正義感が希薄になるのかも知れません。

 “善良な市民”の日常生活で、いわゆる〈警察の御厄介〉になる機会はありません。しかし例外があります。実は御厄介とまではいかずとも警察に検挙された経験のある人は大勢います。それは交通事犯です。
 私が少年の頃には街を走っているのは仕事用の車両だけでした。個人所有の乗用車はないに等しかったのです。その頃は個人所有の車を『自家用車』と称していました。現在では『自家用車』というのは死語になったも同じです。
 その当時の交通事犯など現在と比べれば殆どゼロに近かった筈です。昔、職場の先輩から聞きましたが、酒を飲んだうえ何かの違反で停止を求められても
「酒を飲んでいたなら、まぁ仕方がないなぁ」という判断で違反に問われなかったという“のどかな時代”もあったといいます。そんなおとぎ話のような昔でなくても“自家用車”がないに等しい頃は未だレーダー式の所謂〈ネズミ取り〉はありませんでした。

 我が国で自家用車が増え始める高度経済成長期になると“仕事用”のクルマも自家用乗用車も増え始めました。この頃からレーダーによる速度測定が行われ始めたのです。さらに市街地を中心に『法定速度』よりも遅い『規制速度』が適用される道路が増え、個人所有のクルマが急速に増加、渋滞があちこちで見られるようになると街の中心を迂回してクルマを流すために各地でバイパス道路が建設されました。すると殆ど危険を感じないような広い直線に近い道路で、つい速度を上げて走るクルマが増えます。ネズミ取りはそういう場所で行われるのです。郊外で危険を感じない直線道路、どう見ても安全と思われる道路で隠れて速度違反を検挙しています。

 一般の善良な市民が警察の御厄介になるのは殆どがネズミ取りに代表される交通事犯ですが、検挙された市民は殆ど全員が真摯に反省しません。レーダーによる速度検知は走行中の一瞬の速度を捉えていること、道路を走行しているクルマの殆ど全部が定められた速度を大幅に超えていることを考えれば取り締まりを受けた市民にとっては『運が悪かった』としか思えません。何の危険もない走行で検挙された市民は警察への反感を覚えるだけです。危険の少ない道路での速度取り締まりによって検挙実績を積む仕事はどう考えても“正義感”に基づくものとは思われません。ネズミ取りは善良な市民を敵に回す仕事であることを慮ることがありません。

 クルマ社会の黎明期以来、速度取り締まりは交通安全のための仕事ではあり得ません。警察官が善良な市民と同じ正義感を持っていれば速度取り締まりのような理不尽な仕事はできない筈です。新潟県警では過去に身内の警察官の違反を依頼に応じてもみ消した“事件”がありました。あの事件は全国の警察で潜在している事例の一つでしょう。(上記の富山県警の警部補も余罪として同僚が速度違反で検挙されたことに気付いて交付された切符をシュレッダーにかけてもみ消したと報道されています)
 運悪く懲戒免職になった定年間近の警察官は次々ともみ消しの依頼をした者の名を連ねたものです。警察官自身も速度取り締まりが正義に反する仕事だと認識していた証左です。

 一般市民が警察の御厄介になる機会は交通事犯が殆ど全部ですから日頃の思いを述べたのですが、概ね警察官が職務を遂行する際に個人的な正義感が邪魔になるというのは間違いないでしょう。そして長年警察官として職務を続ければ個人的な心情や正義感が抑圧され続け、やがて常態となります。勿論だからといって実際に犯罪に手を染める警察官は極めて少数に違いありませんが日常的に正義感が抑圧され続ければ殺人と放火の大罪を犯した富山県警の警部補と紙一重になる者も大勢いると考えることができます。

 警察官は法の理念に思いを馳せ、徒に検挙実績を求めず自らの正義感に恥じることなく職務を遂行して貰いたいものです。警察官は法の定める範囲とはいえ国家から強権を委託されています。その強権とは詰まるところ『暴力』なのです。善良な市民の幸せを守るために使う暴力です。個人によって正義の中身が少しずつ違うかも知れませんが、その根幹は殆ど違いがない筈です。

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