26 マ ナ ー

ていいちOTP

 年度初めから妻が『マナー教室』へ通っています。マナーに従うべき人生のイベントの大半を済ませているのですが、日々の生活に心の余裕が感じられるようになって、改めてマナーを確認したくなったのかも知れません。
 ある日、教室が設けられる場所の駐車場が心配だというので妻の送り迎えをしました。クルマで待っていると受講生は殆ど年配のおばさんです。若い人向けの社会へ巣立つ準備としてのマナー教室とは趣が違っています。

 ときどき妻は私に『教室』で習ったことなどを話してくれます。先日は食膳の並べ方について習ってきたといいます。食膳の手前左にご飯、手前右に汁物という訳ですが、講師の女性は相手が年配者だからでしょうか、並べ方の基本的な理由を説いているのだそうです。
 ご飯を手前左に置くのは御飯が日本人にとって一番大切な食べ物だから云々と説明されたといいます。しかし日本人の主食が御飯であることと“手前左”がどう関連するのか今一つ分かりません。右利きは箸を右手で使うので、左手前にご飯があるのが便利に違いなく、それが“左手前”の主な理由でしょう。
 しかし汁物の位置が右手前だということを長年不思議に思ってきました。みそ汁などが右手前にあると箸を持つ右手を動かす度にお椀をひっくり返すのではないかと気になるのです。汁椀が特に倒れ難いように工夫されている訳でなく、むしろ危うさを愛でる?芸術的観点からデザインされています。幼児の頃に幾度も汁椀を倒した記憶もあります。

 これについては後年知識を得る機会がありました。その昔は畳に正座をして前にある膳の上の器を取り上げて食事をしていました。映画やドラマで見る武家の食事風景のようなものでしょう。
 あの時代のほんの一握りの階層の食事風景ですが、それが現在に影響を及ぼしています。あのように汁椀が膝の位置なら右手て引っ掛けることはないと想像できます。しかしまったく食事の形態が異なる現在でも器の位置がマナーとして受け継がれているのは一体どうしたことでしょう。おそらく往時単なる習慣であったものが『マナー』としていつの間にか権威付されてしまったのです。そして一旦権威付されると「なぜ?」と口にすることを憚る日本人の特徴と相まって確固としたものになってて受け継がれたのです。

 考えてみれば誰でも気付くことですが、マナーに代表される生活様式も、それが生まれた時代には合理的理由があった筈です。何の条件もなく突然何かが生まれるということはありません。宗教的な信仰でさえ、それが芽生えた時代を反映して人々の心に成長し始めるのだと思います。

 私が30歳の秋深い頃、祖母が亡くなりました。街の火葬場で縁者が待っている時、一人の老人が話しかけてきました。彼は自分が過去に経験した天皇陛下のことを話しました。大袈裟に抑揚をつけて私を睨みつけながら辺りを憚らず大声で話しかけてきました。彼が過去に実際に天皇陛下を見たとき、通路に敷かれている長い々々赤絨毯について
 「あれほど立派な赤じゅうたんの上を歩かれたんやで。陛下が如何に偉いかというこっちゃ」というのが結論でした。絨毯が立派に設えてあることが偉い人の象徴だったのかも知れませんが、その老人の天皇陛下に対する気持ちは“信仰”であり合理性と対極にあるものです。しかし或いは意識下では天皇陛下に対して信仰を持つことが身を守るために有利だったのかも知れません。そして批判的にものを考えることを控え過ぎる日本人にとって、その信仰があたかも庶民のマナーであるかのように人々に染みついていたのかも知れません。

 一般的にマナーには社会的理由があると想像できます。日本の敗戦後“男と女”の精神的距離感が大きく変化したと言われますが、マナーが大きく異なるアメリカの様式が男女のマナーも含めて日本に流入したからです。
 男女間のマナーの初めはおそらく食料が限られていたことと社会の秩序を維持するために必然的に生まれたのでしょう。一つは人口の増加を抑制するため、もう一つは動物のように異性を巡っての無秩序な争いを避けることによって共同体を維持するためです。そう考えると現在のように衣・食・住がほぼ満足されている社会であれば男女のマナーを破る人が増えるのも良しとしないまでも頷けることです。

 マナーがその原初において合理性から生まれたとすれば、それは絶対普遍な信仰の如きものではあり得ません。むしろ社会が変化していることを鑑みてマナーが変えられるべきでしょう。 ある社会でマナーとされる生活様式は、それに従うことで幸せになれるものでなければいけません。環境とマナーのずれが大きくなればマナーがネガティブに人を縛るようになり、マナーの存在意義は消滅するでしょう。

 マナーとは少し異なりますが人々の心に入り込んでいる不可思議なものがあります。それは穢れを清めるとして使用される塩です。最近では少し変化があるようですが、葬儀から戻ってきたとき玄関で塩を使って清めるのは一般的な習慣です。この習慣について疑問に感じる人がいたとしても、ことがことだけに敢えて異議を唱えることなく従うことが多いのです。
 しかし死者を送る厳粛なセレモニーが穢れているでしょうか。生前親しかった人なら『清め』の作法には違和感を持たないでいられません。清めが必要なら、死者が穢れていることになります。
 遥かな原始の時代から人間は死に対して恐れを抱いていたと想像できますが、人が亡くなった途端に穢れた存在になるという考え方は合理性の片鱗もありません。
 調べてみると塩による清めは神道に由来するとも、従って仏教では必要がないとも、葬儀社が持ち帰りの品に含めたのが広範に広まった理由だとも、複数の説があります。しかし何れの説も現代の社会では存在理由がない作法です。穢れという概念そのものが現代では私たちの“幸せ”に寄与しないのです。

 マナーは私たちの幸せのためにある筈で、生活を縛るだけのマナーは存在意義がありません。合理的に理解できないマナーには意義を感じられません。
 NHKで『マナーのツボ』という短い番組を“ゆうどきネット”で放送しています。冠婚葬祭などで中年夫婦が迷うコメディータッチの寸劇のあと“ときばあちゃん”という人が出てきて細かい解説を楽しく?やってみせます。
 解説を聴くと一応なるほどと思えますが、その大半は殆どの人が知らないことか日常的に意識に登らないことを根拠にしています。だからそのマナーが守られなくとも厭な気分になる人が殆どいないと思われます。
 マナーは互いに幸せな気持ちになれるものでなくては意味がありません。マナーを知っているばかりに無垢な人の行為を不作法だと感じて不愉快になるなら本末転倒です。

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