25 ふるさと

ていいちOTP

 まだ学生だった二十歳過ぎの頃、盛岡の駅前に大きな塔のような看板が立っていました。看板にはあの地方を象徴する歌人の作品が書かれていました。
「ふるさとの山にむかいて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」岩手山は、それを見遥かすことができる地方の人々にとって、いつの時代も故郷の象徴に違いありません。後年石川啄木のこの歌が理解できるようになり、自分には牧歌的な『ふるさと』がないことを意識するようになりました。
 私の故郷は京都の大宮という商店街です。通りは広くなく古都の観光イメージとかけ離れた街でしたた。中学時代に引っ越し、学生時代は家族と離れましたので、大宮にいた時間はそれほど長くありませんが、最も郷愁を覚えるのはあの街です。
 『ふるさと』という言葉が持つイメージは、田園風景とか地方都市だと思いますが私の故郷は小さな商店が狭い道路の両側に密集している見通しの良くない街です。幼児の頃の「世界」は道路の向こうの一番遠くに見える洋式の建物まででした。『あの向こうには何があるのだろう』と思いを巡らせていたおぼろげな記憶があります。

 関西を離れ、年月を経るにしたがって故郷を訪ねることが少なくなりました。たとえ猥雑な街でも『故郷』の思い出が濃いのですが、街の風景も変遷して記憶の中にある街は新しい建物に置き換わっています。
 以前、姪が「おじちゃん京都駅が新しぃなったさかい、見てきたらええのに…」といいました。駅のことはニュースで知っていましたが見たいとは思いませんでした。
 実際に見てはいませんが写真や映像で新しい駅を知っています。ひどく背が高く無機質な外観になってしまいました。まるで往年の少年向け漫画『鉄人28号』が横たわって背を向けているようです。寂しい思いがしました。
 想い出は記憶の中だけのものになってゆきます。だから年月を経るほど故郷の求心力は弱くなるのです。

 新潟の現在の街には40年以上も過ごしています。近隣の街に暮らした時期もありますが概ねこの街にいます。この街も随分変わりました。40年の間に市街地が随分膨張しています。
 街の風景が変った当座はノスタルジックな感傷を覚えますが程なく新しいものに馴染んでしまいます。記憶の中だけにあるものと異なり目の前にある街には時間が流れているからです。

 15年ほど前、学生時代の友人から突然電話が入りました。奈良にいる彼とは賀状や夏の見舞い状をやり取りしていましたが直接声を聞くことは殆どありませんでしたので驚きました。
 彼は勉強が好きで昼間仕事をしながら夜学で高校と大学を卒業し、さらに夜間定時制で教壇に立ちながら大学院を修了しました。その後、大学の先生になって万葉集の研究をしていました。奈良の地で万葉集が感覚的に身近だったのかも知れません。互いの挨拶が終わると彼は「君の処から三条は近いか?」と尋ねました。家を出てから高速道路を使って一時間ほどかかると答えると
「そんなに遠いのか…」と言って次の言葉をためらっています。尋ねてみると三条に万葉集の一つの歌碑があるらしいといいます。奈良からでは遠過ぎるのでその歌碑を調べて欲しいというのです。

 学生時代から世話になっていた彼の役に立ちたいと考えて調査を引き受けました。彼の希望通りに歌碑と歌碑のある神社、そしてすぐ近くですが圃場の中にポツンと離れてある藤の木立の写真を撮り、市内の神社の神主さんのお宅を訪ねて歌碑の来歴について聞かせて貰ってきました。そしてそれをまとめたものと写真を一緒にして郵送したのです。
 遠く離れていても私を思い出して頼みごとをしてくれたことを嬉しく思い、僅かでも彼の研究の役に立ったことに充実感を覚えました。律儀な彼からはすぐにお礼の返事がきました。論文ができたら送るといいました。
 1ヶ月ほどして大学の名前の入った冊子が届きました。文学部の先生たちの研究論文を期間ごとにまとめたものです。
 冊子を開き彼の論文を探して目を通しました。素人には難解な個所もあったのですが概略は理解できました。それは彼が時間をかけて紡ぎ出した研究成果でしたが、私には辛い内容になっていたのです。彼の真面目な人柄と優れた資質を知っているだけに、なお辛い思いがしたのでした。

 三条の万葉集の中の一首が刻まれた歌碑にはすぐ近くにある藤の木立を読んだ歌だと説明されています。その昔は藤の木立は広大で森の様相を呈していたといいます。1400年もの昔、万葉の時代に都から遠く離れた三条の地でも歌が詠まれたのだと思えば、少し誇らしい気持ちになったのです。
 でも彼の論文では同じ歌が詠われたとする地が奈良にもあり、多面的に考察すると奈良のほうが本当で新潟の三条で詠まれたとされているのは真実ではないと結論付けられていました。友人は研究者ですから意図的に研究を曲げたりはしない筈です。ですから私には予断を与えずに調べて欲しいとだけ伝えたに違いありません。
 彼にとって私は依然として関西人なのでした。関西人であれば越後に存在するものを偽物だと結論付けても気を悪くするとは想像できなかったに違いありません。今となれば私はアラフォーといわれる人たちよりも長く『新潟の人』を続けているにも拘らず…です。

space
25 ふるさと
inserted by FC2 system