22_比良縦走路

ていいちOTP

  〈文芸しばた〉小説として投稿)

 
和樹が初めて登山をしたのは昭和三十六年で高校二年生の秋である。同じクラスの吉沢に誘われたのだった。京都では九月に入っても夏の暑さが遠退かず暑い日を恨めしく感じる日が多い。それは盆地特有のものだと子供の頃から聞かされてきた。しかし冬の底冷えは理解できても夏の熱い空気がどうして上昇しないで盆地の底に留まるのか理不尽である。そんな暑さが残る九月の下旬、和樹は吉沢と他の四名と初めての山登りを経験した。天候に恵まれ暑さが恨めしいその日、六名が[出町柳]に集合した。
 通常比良山系へのルートは京阪三条から浜大津まで京阪電鉄の京津線を利用し、大津から江若鉄道に乗り換え近江今津方面へ向かう。シーズンには江若鉄道の浜大津駅は登山客で混み合う。しかし和樹たち六名は出町柳から京都バスで比良山系の西側へ向かい、沢登りをしたのである。谷川伝いに高度を稼いでいくルートで初めて登山をする者が選択するには危険なルートである。しかし吉沢は和樹たちに簡単な装備の他に藁草鞋を忘れないように念を押しただけだった。吉沢は
 「…草鞋を持ってこんと登れへんど、草鞋履いて滑らんようにして登んにゃさかいな…」と言うだけだった。和樹たち五人も深く考えることなく従った。京都バスは出町柳から北へ向かった。北へ三十分ほど走ると大原である。路面は舗装されていない。でこぼこした砂利道を走った。やがて三千院の脇の道路をのろのろと登っていく。かなりくたびれたバスは大勢の客を乗せてゆっくり走った。乗客にはまるで歩いているのと変わらないように思えるほどだ。『途中』という名の峠を越えて更に二十分ほど走ると比良山系の裏側から取りつく『坊村』へ到着した。

 吉沢によればその日のルートは沢を登り切って暫く行った処に位置する『金糞峠』まで行き、あとは琵琶湖側へ一時間ほど下る一方だから特別な装備など要らないというので各自のリュックは軽かった。昼飯が主な荷物であり、あとは草鞋を履いている間、リュックに登山靴をぶら下げているだけだった。坊村から少し歩くと直ぐに登山道になり、ほどなく谷川になる。急な谷の流れの脇の岩を両手両足を駆使してよじ登って行く。草鞋は直ぐにずぶ濡れだが濡れた岩では滑りにくい。登るに従って呼吸が荒くなり苦しくなった。吉沢の指示で時々小休止を入れながら上へ上へと進んだ。坊村を出発して二時間足らずして沢筋から離れ、水のない登山道になる。そこで皆で草鞋を脱ぎ登山靴に履き替え小休止をとった。疲れてはいたが心地よかった。沢登りを危険なことだとは感じなかった。
 そのあと一時間ほど意気揚々と歩くと前を歩いていた吉沢が突然
 「着いたぞ、金糞峠や」と大声で皆にどなった。急いで峠の頂きまで登ると、それまでの森の中の風景が一変して目の前に巨大なパノラマが展開した。遥か眼下に琵琶湖が横たわっている。遮るものなく広大な琵琶湖を見通すことができた。吉沢が話していたとおり金糞峠からは一直線に下りになっていた。吉沢は
 「ここからは下りばっかりやさかいに比良駅まで一時間掛らへんやろ」と言った。和樹たち五人は素晴らしいパノラマを前にして高揚した気持ちで吉沢の言葉を聞いた。皆でかなり急な下りを半ば走るように進んだ。急な登山道が終ったあと江若鉄道の比良駅までは平坦な道路が数キロあった。比良駅まで定期バスの路線もあるが、本数が少なくバスなど待っているよりも歩いた方が早かったのである。
 和樹は森の中の道を登り切った後に突然開けた金糞峠からの素晴らしい光景を心に焼き付けて大津へ向かう江若鉄道に揺られていた。戦前から走っているディーゼルカーで床下からガラガラという古臭いエンジンの音が聞こえていた。難ルートだったが、それほど疲れてはいなかった。

 登山を趣味にしている人は概ね頑丈な身体つきをしている。しかし和樹は子供の頃から頑健とは正反対でむしろ虚弱といってよい体格である。そんな和樹が比良山に惹かれ山系の幾つものルートを歩いたのは体力が旺盛な高校時代だったからである。装備やアクセスに金のかかる北アルプスなどは考えたこともなかったが隣県にあって手軽な比良山系は気軽に出掛けることができた。
 和樹は学校の登山部に入ろうとは思わなかった。気の合った友達と山歩きをしてもクラブに所属する気にはならなかった。体育系のクラブは上下の関係が厳しく、暴力が伝統とされることも珍しくない。
 ある夏の日、いつもの金糞峠への登りを歩いている時、前方で突然怒鳴り声が聞こえた。近付くと一人の大学生が大きなリュックを背にしたまま登山道に仰向けに横たわって真っ赤な顔で苦しそうにしている。それを四・五人の学生が取り囲むようにして口汚く罵りの言葉を掛けているのである。それは頑張るように激励しているようにはとても見えず只の苛めにしか思えなかった。
 和樹が登山部に入部しなかったのはグループの一員になると自由な行動ができなくなるという理由の他に体育系のクラブでは殆ど例外なく上級生が先輩面をして下級生を指導の名目でしごくのを見たり聞いたりしていたからである。指導という大義でいじめともしごきともつかない仕打ちを受けた者は次の年度になると新人である下級生を苛める立場になる。新人の頃苛められた者も月日を経ると辛い経験を耐えたことを誇りに感じ、辛い経験をしたからこそ強くなれたなどと自らの経験を肯定する。それが屈折した思いであることを認めようとしないので下劣な伝統が幾年月も断ち切られることなく続く。

 和樹は外交的な性格ではない。その為か一人で登山道を歩くと充実感があった。吉沢に誘われて初めて山歩きをして以来幾度も比良山系を歩いた。気の合う友達数人と登ることもあったが、概ね一人で歩いた。いつも比良駅から登山口まで歩いて山へ入った。バスを待つよりも歩く方が早く登山口へ入れたからである。登山口から少し行くと巨大な谷間が開いていて遥か向こうに金糞峠が見える。峠まで一時間余りだ。登山道は登るにつれて狭くなり途中からは岩がゴロゴロしたガレ場になる。石の色が青く見えることから〔青ガレ〕と呼ばれている。其処は急登で足を休めて振り返ると辿ってきた道が遥か下まで続き、その先に琵琶湖の水面が光っている。青ガレから峠までは遠くないが更に急登になるので足の運びがとても辛くなる。そうして金糞峠に到着するといつも腰を下ろして暫く休んだ。

 金糞峠は比良山系の中ほどにある。其処から北への道を辿ると四十分ほどで八雲が原に到着する。山中では『原』と名が付いていても想像するほど広くない場合が多いが八雲が原は横切るのに十分ほど掛る広さがある。この原を越えて暫らく行くと分岐があり左へ登ると比良山系の頂き、武奈ケ岳へ至る。頂上に拘らず右のルートをとると緩い下り道になり、辺りが鬱蒼としてくる頃、八ツ淵の滝の水音がしてくる。このルートは一旦琵琶湖と反対側の平場へ下りるが畑の中の細い道を再び東へ登ってゆくと峠から直下に湖岸が見える。その急坂を下ると『北小松駅』に到着するのである。
 和樹はこの変化に富んだルートが気に入っていた。比良駅から金糞峠への急登、殆ど平坦に思える八雲が原まで、続いて緩やかに下る滝のあるルート、最後の急登を登り切った峠からの湖の風景、そして最後に北小松駅に到着した時の充実感を楽しめる。比良山は金糞峠を経て武奈ケ岳へのルートを歩く人が多く、次にこの峠から南へ向かい『打見山』を経て『蓬莱山』へと歩く人が多い。しかし北小松へ出るルートはどうした訳か人が少なかった。鬱蒼とした暗い森があり一旦平場へ下りたあと再度登らなくてはならず、どちらかと言えば辛いルートかも知れない。しかし和樹はこのルートを幾度も単独行で歩いた。
 和樹はある日、登山をテーマにしたテレビ番組でゲストが「山登りの魅力は色々言われていますが、やはり詰まるところ、辛い思いをして一歩一歩を登っている、まさにその瞬間だと思いますね」と解説したのを聞いて納得した。和樹は荷物を背にして山を歩いていると、いつも脈絡なくパラパラと以前のことが思い出された。
 その日は夏の暑さがようやく遠退いた十月の初めの日曜だった。和樹は比良山系の北半分を歩いた。北小松駅から山へ入り八淵の滝を経由して八雲ケ原を横切り金糞峠へ向かうルートを選んだ。いつもと逆のルートである。江若鉄道の北小松駅を出て一キロほどで登山口になり、すぐに急登になる。ようやく秋らしくなった青空を見上げながら和樹は急な登山道にとり付いた。リュックには昼食用のパン三個と半透明の容器に水道水、それに汗拭き用のタオルを二本入れた。底に金具の付いた青のナイロン製の登山靴に赤茶色のジーパンを履いていた。和樹は速いペースで歩いた。北小松の駅がぐんぐん遠く小さくなって琵琶湖の水面が太陽に眩しく輝いているのが見えた。
 四十分ほど歩き、下りに変わる処に大きな平らな石がある。和樹はその石の上で仰向けになった。石の冷たさが一気に登ってきて熱くなった体に心地良かった。和樹が休んだ大石の上からは東に琵琶湖、西側遥かに平場が見える。田畑にはもはや緑がなく辺り一面黄土色だった。和樹は一気に下った。北小松から山系中央の金糞峠までのルートは健脚向きといわれているが高校生の和樹は苦しいと感じたことはない。平場から『奥の深谷』の辺りまで入ると森が鬱蒼として登りがきつくなる。一歩一歩脚を運んでいると家や学校での事々が目の前の風景と別に脳裏に浮かんでは消え浮かんでは消える。八ツ淵の滝でひんやりした飛沫を潜るようにして進んでいく。其処から八雲ケ原手前の山小屋までは更に急登になる。そして八雲ケ原まで来ると、ひととき平らな道になり更に速く歩を進めることができた。

 金糞峠まで来ると日が傾き始めたが比良駅まで一気に下れば一時間足らずである。和樹が金糞峠で岩の上に腰をおろして暫くぼんやりしていると、後ろから声を掛ける人がいた。
 「何処から登ってきたんですか」若い人で和樹よりも十歳ほど年長のように見える。和樹は突然声を掛けられて戸惑いを覚えながら
 「北小松から縦走してきました」と答えた。一般に健脚向きといわれているルートを歩いてきたことに少し得意な気持ちもあった。その若い人はとても紳士的な態度で親しく話しかけてきた。
 「あのコースは長いんでしょうね。一人で歩いてきたんですか?この山は色々歩いているんですか?」和樹は突然始まった知らない人との会話に緊張しながらおずおずと答えた。
 「はい。金糞峠から北側が好きでよく歩きます。頂上の武奈ヶ岳へは二度しか行ってません。」その若い人も単独行だった。
 「峠から南の方へは歩かないんですか?」
 「南の方は打見山から蓬莱山までのコースを何度か歩いてます。打見山の辺りは広々した風景があって気持ちがいいです」緊張しながらも得意だった。
 「この山を色々歩いているんですねぇ。すごいですね」とその若い人は応えた。そして暫らく話をしたあと和樹にどこの学校にいるのかと尋ねた。和樹は自分の学校を話した。すると若い人は自分も京都市内の高校に勤務していると話した。和樹はその人が自分を見下す言葉でなく、きちんと大人に対する言葉で話しかけてきたので驚きと共に少し落ち着かない気持ちもしたのである。その教師は和樹と前後して湖岸の駅まで歩いた。

 和樹は紳士的な態度のその若い人が親しく声を掛けてくれたことが嬉しかったが、教師だと分ると突然胸につかえるものを感じてしまった。その人は市内の公立高校の名前を言った。
 和樹は私立である。学区の公立高校を受験したが不合格だった。合格発表を見に行った同じクラスの友達は皆合格していた。受験当日も自信がなかった。合格しないだろうとも感じていた。合格発表を見て戻ってくるとき中学校の英語の先生に会った。一緒にいた友達に言葉を掛けた。
 「よかったねぇ。おめでとう」その先生は暗い表情の和樹にもちらっと視線をくれたが、すぐに級友に笑顔を向けた。当然だった。
 和樹はそのあと家に戻って中学校の卒業記念品として貰った自分の姓が刻まれた印鑑をコンクリートの地面に置いて泣きながら金槌で執拗に叩いて潰した。自分が真剣に受験準備をしなかったことを十分自覚していたにも拘らず悲しく寂しかった。
 和樹は公立の受験に失敗したあと私立高校の二次試験を経てなんとか高校生になり一応安堵したが、それは劣等感が綯い交ぜになったものだった。和樹の学校は緑に囲まれたとても良い環境にあったが街から遠い場所にあった。

 金糞峠から下りるときに一緒になった若い人が公立高校の教師だと知って、山歩きで忘れていた重苦しいものが意識されてしまった。その教師は和樹が急にぶっきらぼうになったのを不思議に思ったかも知れない。江若鉄道の比良駅までその教師と前後して歩いた。駅は山から下りてきた人で混雑していた。和樹は駅に近付く頃わざと若い教師と離れた。そしてホームの人の群れに交じり込んだ。その教師が同じ山の仲間として和樹に好意を感じてくれたにも拘らず、敢えて離れた場所にいることを後ろめたいとも感じていた。
 江若鉄道は琵琶湖の西岸に点在する小さな集落を結んで路線が敷かれていて登山客で混み合う時間だけ列車の数を増やしていたが、それでも三十分ほどの待ち時間があった。大勢の登山客が心地よい疲労感に浸って列車を待っている。
 和樹が列車の来る近江舞子方面をぼんやり眺めている時、混雑の中で歩き回っている人の気配がした。あの若い教師だった。和樹を探していたのである。しかし和樹は振り返ることなくじっと線路を眺め続けた。若い教師が和樹を生徒としてではなく対等な山の仲間として探してくれている。だが和樹にとっては公立高校の教師を連れと考えることは到底できなかった。その教師が和樹のいる場所から離れて行った時、少し緊張が解けてほっとしたが同時に好意を無視した罪悪感も残った。やがて浜大津行きの二両編成の列車がエンジンの音を響かせて到着した。和樹は身動きできないほどの混雑の中で時折車窓に流れる農家の明かりをぼんやり眺めていた。もはや外は夜になっていた。

 月曜日に学校へ行くと一時間目が始まる前に吉沢が和樹に小声で話し掛けてきた。
 「あのなぁ、数学の山田が二学期でこの学校を辞めてK女子高へ行くらしいでぇ」突然の話に和樹は吉沢がどうしてそんなことを知っているのか不思議に思った。どうしてそんなことが分るのかと尋ねると
 「今朝、放送室の廊下の隅でな、三年の担任のせんせが小さい声でそんなこと喋りながら歩いてたんや」
 「三学期から学校移るて、山田せんせなんか失敗でもしたんかなぁ」和樹が言うと吉沢はこともなげに
 「K女子高へ嫁はん探しに行きよるんや」と言う。二人は同じクラスで同じように過ごしていたが世界が違っていた。しかし和樹は吉沢に対して違和感を持たず、未知の世界への窓を覗いているような気持ちがしていた。吉沢は和樹が日曜日に比良を歩いてきたと聞くと
 「今度は金糞峠から蓬莱山まで歩いてみよか」と和樹を誘った。和樹は十一月に入ってからなら行ってみようと約束した。その年、十一月に入ってもまだまだ気温が高い日が多かった。比良山系のような標高の高くない山を歩くには暑さが退く頃が楽しい。

 その年、十一月の下旬に入った最初の日曜日、吉沢と二人で登山道の始まるイン谷口から歩いた。京阪三条を出るときは良い天気だと思ったが徐々に雲が多くなっていた。金糞峠へ登り付いた時は未だそれ程でもなかった。いつも体力に余裕があり、峠から南へ少しもためらわず歩を進めた。和樹は幾度か蓬莱山まで峰を継いで歩き湖岸の駅へ下りたことがあるが途中の峰から下りるルートを知らなかった。それまで縦走路の途中で山を降りることなど考えたことがなかった。その日も吉沢と二人で何の迷いもなく速いペースで歩いた。しかし縦走路を南へ進み打見山が遠くに見える頃、急に空が暗くなり、しだいに風が冷たくなってきた。そして打見山がすぐ近くに迫った頃、弱い雨が降り始めたのである。和樹は前を歩いている吉沢に声を掛けた。
 「おい、降ってきたなぁ。お前、雨具持ってきてるか」吉沢は歩きながらすぐには応えなかった。そして
 「あんなええ天気やったさかい、そんなもん持って来るか。お前も持ってへんやろ」
 手軽な山であり、幾度も同じルートを歩いていたので二人は不安を感じたことなどなかった。吉沢は
 「ひどう降らんうちに下りなあかんな。早よう行くしかないで」と言うと、一段とペースを上げ始めた。蓬莱山まで行けば、あとは一気に下ることができる。しかしその日に限って和樹は打見山を過ぎる頃、疲れが出始めていた。蓬莱山の緩やかな頂きを通過する頃は雨脚が強くなり足元がぬかるんだ。吉沢との距離が離れ始めた。
 「お〜い待ってくれよ。もうちょっとゆっくり行ったらええやないか」
 「なに言うてんにゃ、雨がどんどん酷うなるでぇ。はよ行かなあかんわ」
 蓬莱山から谷あいの道を下る頃は全身がびしょ濡れだった。背中のリュックも水を含んで重く、いつもなら一気に下ることができる道も雨を集め始めていた。

 和樹は自分なりのペースで歩けば相当な長時間でも耐えて歩くことができたが自分のペース以上の速さで歩くと途端に苦しくなった。心臓がドンドン鳴り、しだいにダダッと鳴るのが分った。下り終って駅までの舗装路までやってきた時、雨はやんでいたが、もはや寒さと疲れで力尽きる寸前だった。吉沢は未だ和樹ほどではなかったが、やはり深刻な表情で青白かった。そしてぽつりと言った。
 「ちょっと危なかったなぁ」和樹は表情を変えず黙って肯いた。
 二人は濡れたまま列車に乗り込んだ。古くて軋む車両の底から伝わるエンジンの音と振動が心地よかった。二人の様子をじっと見ていた中年の乗客が和樹たちを睨みつけるようにして話しかけてくれた。
 「あんたらなぁ、比良が低い山やと思うて馬鹿にしたらあかんでぇ。山の上はここらと違うて天気が変わり易いさかいな」和樹はそのとおりだと思った。それまで大人たちの話すことを自分なりに理解しようという姿勢でいた積りだったが理屈抜きで身に沁みるという経験はこの時が最初である。だが明くる日になると何事もなかったように登校した。危険が去って再び高校生らしいエネルギーが満ちた。教室へ入るともう吉沢の姿があった。吉沢は
 「昨日はスリルがあったなぁ。そやけど俺らはやっぱり運が良かったでぇ。お前今朝の新聞見たか」
 「いやちょっと寝過ぎてしもて、起きてすぐ学校へ来たんや」和樹が答えると
 「あのな、昨日金糞峠の下の青ガレでO高校のせんせが足踏み外して滑落死したちゅう記事が載ってたでぇ。あとから下りて来た人が発見したらしいわ」と言った。

 教師の遭難と聞いて驚き、年齢が書かれていたか尋ねると29歳と書かれていたと言った。和樹は一ケ月前に山を降りるときに話しかけてきた若い教師のことが心に浮かんだ。同じ年格好である。O高校はその昔高等女学校だった公立校である。あの時互いに名前を聞いてはいなかった。あの人でなければいいと思った。その日、和樹はあの人が気になって授業を真剣に聴けなかった。明くる日も、その次の日も、あの若い人が思い出された。あの日、ホームの雑踏で自分を探してくれた。振り向かなかったのは拒否ではなかった。和樹はあの比良駅のホームで雑踏に隠れていた理由を幾度も考えた。あの時の自分の行動には訳があったが相手には分る筈がない。

 その年も積雪が殆どなく底冷えで寒さだけがこたえる冬が通り過ぎていった。やがて春になり和樹は三年になった。しだいに山歩きからは遠ざかるようになり、あの教師のことを思い出すこともなくなっていた。京都の酷く暑い夏はただ耐えるだけの季節である。蒸し暑く、もっとも勉強したくない時期に勉強した者が来春に笑うことができると担任の教師は何度も口にした。しかし和樹はそんな言葉にうんざりした。そんなサディスティックな言葉どおりに勉強するなんてマゾのすることだと思った。
 弁当を昼前に食べてしまった日は昼休みによく図書室で過ごした。図書室には受験雑誌が幾種類も並んでいる。しかし和樹は写真雑誌や工作系の雑誌を見ることが多かった。しかしその日、どうした訳か和樹はいつもと違ってふと一冊の受験雑誌を手に取った。

 こんな雑誌に書いてあることはどれも同じだ。教条的な教師がマゾ的な勉強に打ち込めと勧めているのである。和樹は手に取った雑誌をパラパラと捲った。写真のページが終ったあとに『教科別能率的学習方法』というページがあった。能率的とは楽に勉強が進むという意味か。教科毎に著者の教師の写真が載っている。
 だが気乗りしないままに英語のページを見たとき、和樹は心臓が一瞬止まるのを感じた。大きな写真ではなかったが、それは間違いなく比良の駅で自分を探してくれた教師であった。和樹は雑誌の裏の発行月を見た。この年の夏の号だった。和樹は自分の心の隅に澱のように溜まっていたものが突然軽くなるのを感じた。吉沢とびしょ濡れになって下山したあの同じ日、金糞峠下の青ガレで命を落とした人は別人だったのだ。
 その次の年、和樹は辛うじて関西にある大学に進学した。高校時代とは違う自由な雰囲気の中で嬉しさと戸惑いを感じながら過ごした。しだいに高校時代に親しんだ比良の山歩きにも意欲がなくなった。解放的な環境の中でそれまでにないものを求めていたのかも知れない。金糞峠で出会った教師を思い出すこともなくなっていった。


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