ていいちOTP

1_名人芸の排他性
  ひと頃、カリスマ性を持たせたコメンテーターを主役に据えて先祖の霊がどうこうというような合理性よりも感情に訴える番組が目につきました。そうした番組の主役はときには発言内容がとても謙虚な内容であるのに反して本人たちの醸し出す雰囲気は驚くほど不遜です。
 そんな時、そうした合理性を棚に上げて自分の世界を披露する人たちと、合理性を忘れず物事に対処すべきと主張する人たちとの対決的な論争をテーマにした番組もありました。その中で合理主義派の名の知れた教授が
「あなた方のような大人はいいが、年若い少年たちが合理性を重視しなくなることが大きな問題なのですよ」と発言していました。その発言を聞いて私は溜飲を下げました。子供の頃から合理性を育むことは社会が正しく発展するために必須です。そう考えると最近の子供たちに理科離れが顕著だという事実は由々しきことなのです。

 敗戦直後、戦前の反省に立って合理主義を前面に押し出した時代に小学校に入学した私たちの世代は、何事にも『なぜ、どうして』と考えることが重要だと教えられました。そして『なぜ?』という疑問を持つことは娯楽の少ない時代の子供にとってはとても楽しいことだったのです。未だ社会科学の分野に疑問を投げかけることは大人に歓迎されませんでしたが、自然科学の分野に対する興味は大人にとって歓迎すべきこととされたのです。
 現在のように何事にも疑問を呈することの少ない子供が多くなることは短期的には大人や社会の指導者にとって都合がいいかもしれませんが、長いスパンで見れば社会が衰退する大きな要因になるでしょう。なんとか社会全体が、とりわけ子供たちのスタンスが科学的合理的になることが重要です。

 カリスマ性が高く合理性よりも理屈抜きでモノ信じるというスタンスが前面に押し出されている番組の一方では、それとは趣向の異なる幾つかの科学番組もあります。NHKは<ためしてガッテン>のような番組をいつの時代もオンエアしています。
 民放でも科学番組と銘打った番組が幾つかあります。日曜日の朝に放送される有名タレントを中心に若い女性アナウンサーと脇役のように見えて実は重要な役回りをしている男性の3人が進行している30分番組があります。

 ある日曜日のテーマは〈蕎麦〉でした。番組の頭でそば打ちを披露していました。名人が十割そばを見事な手捌きで打ってゆきます。次にそれに倣って素人の女性アナウンサーが取り組みます。でも勿論名人のようにいかず蕎麦が固まらなくてボロボロになりました。蕎麦を打つ時重要なことは一定量の水をそば粉に手早く均等に混ぜることで、もたついているとダンゴになる部分と水が足りない部分が生じて上手くいかないのです。なるほどと理解できたところでその番組が科学番組と銘打っているだけあり、モザイクで隠された秘密兵器が出てきました。

 CMのあとその秘密兵器の正体が明かされます。それは日頃簡単に手に入る〈霧吹き〉でした。霧吹きにそば粉に見合う量の水を入れておき、薄く広げたそば粉にまんべんなく吹き付けて混ぜ合わせます。暫らく混ぜ合わせると残りの水を全部均等に吹き付けます。そのようにして蕎麦を打つと素人の若い女性アナウンサーでも名人と同じようにそば粉を纏めることができたのです。
 専門店の名人が店で霧吹きを使う場面を客に見せる訳にはいきません。モノ作りの世界の名人芸はとかく技術を閉鎖的に扱っていることが多く、各界の名人はその技術を科学的に分析されることを嫌う傾向が強いのです。

 名人と弟子の間柄ではしばしば“教えて貰う”のでなく“目で見て技を盗め”などという言い方がされます。それが名人として如何にも格好よく見えて、そういったスタンスこそが技術を後世に受け継がせる王道だと肯定する人たちもいます。しかしそのような名人技に対する態度は、技術が一般化するのを歓迎せず技術を独占することで得られる社会的経済的優位性を維持するためのものではなかったでしょうか。そして精神的には技を持つ人たちは名人芸が普及しないことで自分たちの存在意義が維持できるかのようにも感じていたのではないでしょうか。

 昭和20年、私が生をうけた時父親は肺結核の末期症状を呈していました。私の誕生後、2週間して父は逝きました。私が6歳になった年に二代目の父が突然我が家に現れました。この人は母親に『自分は京城高等工業を出た』と言っていたそうです。母親が卒業証書のことを口にすると日本へ帰ってくる際の混乱の中でそんなものは失くしたと聞かされていたといいます。
 この父はラジオを組み立てるのを趣味にしていて、真空管がむき出しでアルミシャーシの上に並んでいるラジオを使っていました。このラジオは通常の受信帯域に加えて当時一般の家庭では必要とされないような受信周波数帯域を持つものでした。

 そんな器用な一面を持つ父がある時、父の実家近くの新築の家の電気の配線を、実家の親を通して依頼され、私も一緒について行ったことがありました。父はおそらく電気工事に関する資格はなかったと思います。或いは未だ終戦後10年余りの頃で法律の整備が進んでいなかったのかも知れません。
 ところで現在の屋内配線用のコードは2本の導線が楕円形の断面をもつ灰色の被覆に覆われています。内部では2本それぞれが黒と白の独立した被覆を持っています。中の導線は撚り線でなく太い一本のものです。撚り線でないのでしなやかでなく硬いのですが、一度配線すれば固定されるので不都合がありません。この屋内配線用のコードが普及しだしたのは戦後12・3年頃です。この新しい配線用のコードが普及する前は1本の導線がロウを滲み込ませた臙脂色の繊維で被覆されたもの2本を数センチ離して平行に天井裏に這わせました。表面に蝋が塗られていましたが経年を配慮すると絶縁性が十分でなかったらしく天井裏などに配線する時、一定間隔で碍子を取り付け、その碍子にコードを取り付けるものでした。

 父は依頼された新築の家の天井裏に入って碍子をネジ止めしながら配線工事をしていました。私が興味を持って梯子をあがって天井裏を覗き入り込もうとしたその時、丁度やってきた主婦が驚いて大きな声で
「上がらんといてぇ!」と制止しました。私が薄い天井板を踏み抜くのを恐れたのです。その日、父は長い時間を掛けて電気配線の工事を終えました。天井裏のような狭い場所ではありますが配線作業そのものは碍子の取り付けと、それに這わせてコードを伸ばすだけですから、それほど難しいことではありません。だが何事でも一般の人は“専門的”と思われる事には手を出さず“業者”に依頼します。

 父はラジオを組み立てたり簡単な電気工事をしたりしていましたので手先が器用で自分でもそうしたことを自慢にしていました。現代風にいえば自分のアイデンティティを自分の素人離れした“技”に認めていたのかも知れません。
 中学3年生の頃、京都の大宮から下鴨へ転居して暫らくした頃、私たちが通常出入りしていた勝手口に配電盤を新たに設置することになりました。母親は父が作業をしてやると言っていたのを待てず、電気店に依頼しました。
 配電盤が設置され九分どおり出来上がっていたその日の夕刻、父は帰ってきて配電盤を見ると、突然怒りを露わにして壁に取り付けられた配電盤を掴んで壁から引き剥がそうとしました。母親は初めて経験する、このような父の怒りに泡を食って
 「…じっ!実力行使したらあかんわ」と言って制止しました。二代目の父があのように怒りを露にしたのはあれが最初で最後でした。父が私たちの前に突然現れてから事故で寝たきりになり亡くなるまで、あのように怒ったことはありませんでした。
 いつも母親の機嫌をとっている人がそのように怒る様を見て私は驚くと同時に奇異な感じもしました。
 「こんなもんでやりよるさかい」父が配電盤を壁から引き剥がそうとしたとき、そう言ったのが耳に深く残っています。

 その頃、もう現在と同じ形態の室内配線用のコードが一般に使われるようになっていました。絶縁性についての経年劣化がありませんので、それまでのように碍子を必要とせず配線用のステープルで柱などに固定すればよいのです。そのコードが普及してきた時、父はその性能を俄かに信頼できないということもあったでしょうが、それよりも自分がそれまで自慢に思ってきた“得意技”が過去のものになり、もはや必要とされなくなったことに対する苛立ちを感じたに違いありません。父の怒りの“実力行使”はそうした苛立ちの爆発であったのです。
 私はそうした父の気持を感じ取ることができましたが、思いやる気持にはなれませんでした。二代目の父は母親の前で自分を取り繕うばかりで、私たち子供も父が口から出まかせを言っているのが分かり、父と私たち子供との間に信頼関係が育たなかったからです。

 父が“技”だと考えていることに母親が口を出すと一般の人には分からない用語を使って応酬ししました。そんな言葉を聞いた母親が分からないといいますと
「分らへんやろ。そやったら黙ってたらええにゃ」と答えました。専門用語は他の人間には分からないだろうという優越感を持っていたようです。しかし父や職場の仲間が使う専門用語は仲間内だけで通じる用語であり、現在の若者の小さなグループだけで通じる若者言葉と同じ種類のものでした。
 私がクルマの趣味を深めている頃、『点火タイミング』が車両独自の設定よりも早いことを父は「たかい」と表現していました。私は「高い」というのは点火タイミングが早いことなのかと尋ねました。すると父は「そうや」と答えました。そう口にした時、如何にも得意そうな口ぶりでした。
 しかし専門用語は若者が造語するような閉鎖的なものでなく、例えば整備に関するものなら自動車の構造を大まかに理解していれば誰でも意味を理解できるものであり仲間内だけで通用して外の人には恰も謎解きになるような滑稽なものではありません。
 二代目の父が常に口から出まかせを言って場を取り繕い、滑稽な“専門用語”を口にして母に対するパフォーマンスに明け暮れていたことは私たちの少年時代が虚しい色に染まる要因の一つでした。

 私たちの社会ではほんの数人の優秀な人たちが新しい“モノ”を創ります。その時、それまでのモノはその価値を大きく減じるか或いは無価値になります。モノは機械工学的に具体的なものだったり哲学的な新しい角度からの思考方法だったり、或いはまた全く別のものだったりもします。
 新しいものが世に現れた時、自分にとって必要かどうかを判断すると同時に社会的に価値があるかどうかを素直な気持で理解したいものです。古いものが新しいものにとって代わられ、それが必要なくなったとしても歴史の中で価値を築いてきたことに変わりがありません。
 熟練の技を素晴らしいと感じますが熟練だけでは進歩がありません。熟練の世界に創造性が欲しいものです。どんな技術も新しいものにとって代わられるのが宿命であり、自分の“技”が時代遅れになったとしても新しい技術の恩恵を受ける幸せに思いを馳せていきたいものです。

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