19 四次元の世界

ていいちOTP

  以前息子たちが遊びに来ていた時、「3D映像」のことが新聞の記事にありました。私が「サン、ディー」といったら息子に失笑されてしまいました。息子のお嫁さんは「サン、ディーでもいいじゃない」と庇ってくれました。私に対する遠慮からの発言だったでしょう。
 私は「7」を殆どの場合「ナナ」といいます。文章の中では「シチ」と発音すべき時でも、つい「ナナ」といってしまいます。会話の中ではひと続きの音の流れの中で「シチ」が「イチ」と聞こえてしまうことを避けたいと思うからです。「ナナ」なら間違って伝わることはありません。
 「3D」の場合は少し違う理由が無意識のうちにありました。過去の記憶が甦って「3」を正しく発音したくなるからです。「3」は「スリー」ではありません。「th」の発音でないとうしろの英単語の頭文字「D」に繋がらないように思えたのです。しかしthの音を正しく発音すると気取っているように思われるのではないかという危惧がありました。そこで日本語で「サン」といってしまえば問題ないと思ったのです。それでも息子に指摘されて以来、私も「3D」を口にする時に、やはり変だと意識改革をして「スリーディー」というように習慣付ようと思い直しました。

 ところで「D」は何の頭文字でしょう。気になりました。日本語では3次元映像と称していますが縦、横の平面世界の概念に高さをの概念を持つ私たちの日常の世界のことですから、「3方向」の意味で「direction」かと思いましたら「3次元」そのままで「dimension」でした。dimensionは「寸法のある…」という意味です。こんご暫らくは「3D」が出てくる度に「スリー、ディメンション」と黙読してから「スリー、ディー」と口に出すようにするでしょう。

 3Dといえば最近のことのように思われますが、そうではありません。昔から、もう50年以上も昔から3Dへの試みはありました。なんと少年雑誌の企画で3Dを体験することもできたのです。少年雑誌の付録に3D用のメガネが付いていました。厚紙のフレームに薄いプラスチックフィルムのレンズです。片方が赤、もう一方が青のフィルムでした。そのメガネで赤と青の線で描かれた漫画を見るのです。ページの赤と青の絵は僅かにずらして印刷され、メガネなしで見るとピントが合わずおかしな感じがしましたが赤と青のメガネを通してみると「立体画像」になりました。もちろん色はなく、全体的に青のような、或いは赤のような奇妙な感じがしましたが「3D」であることは間違いなかったのです。

 「3D」即ち3次元の世界は映像の世界では目新しいものですが現実世界では日常そのものです。言い換えれば地球上の総ての生命にとって地球誕生の時以来、3次元の世界以外を経験していません。画像や映像、それと平面に描かれたものは2次元になりますが3次元世界に内包された存在でしかありません。
 学生時代、ぼんやり学内を歩いているとき、ふと四次元という言葉が心に浮かびました。3次元がどういう意味であるかは理解していましたので、もう1つは何だろうと考えました。
 それ以前に4次元について書かれたものを読んでいなかったか、読んでいたとしても忘れていたと思います。暫らく考えて結論を得ました。縦、横、高さのあとは、昨日、明日しかない筈です。つまり時間だと思い付きました。本当は「時間」を思い付いたのでなく、それ以前にタイムマシーンなどの物語を読んでいたのかも知れません。

 4次元世界は人間が概念的に作り上げた世界です。それも単純に時間を自由に前に進んだり過去に戻ったりするという意味でしか理解されていません。しかし先日新聞の記事で「四次元世界」が取り上げられていて少し思いを改めました。
 4次元世界というのは単純に過去や未来の3次元世界を行ったり戻ったりすることではなさそうです。そうではなく単一の世界の中にあらゆる時刻で切り取られた3次元の世界が同時に存在するという理屈だそうだ。いわば移動時間がゼロのタイムマシーンが自由に利用できる世界なのです。しかしそれは概念的な遊びの世界でしかないでしょう。

 そこで少し現実的に考えてタイムマシーンを想像してみたいのです。タイムマシーンは現実の3次元世界を前提にして時間軸を移動することだととらえて間違いありません。では私たちは過去の世界へ移動することが可能でしょうか。3次元の世界なら縦、横への行動範囲を広げると共に航空機を使えば高さにおいても行動範囲を広げることが可能です。しかし圧倒的、絶対的に流れている「時間」を止めることができるでしょうか。
 将来どのように科学文明が進歩しても、それはできないでしょう。理論的には可能だと考える人もいますが、その“理論”は概念の域を出ることはできません。現在の合理性を内部から破壊できなければ少なくとも時間を遡って移動することはできないでしょう。
 そんなことを考えていて、ある日ふと気づいたのです。他の人はとっくに気付いていたことかも知れません。有史以来人々が便利に移動するために数々の便利な交通機関を発明してきましたが、そうした移動に使う“機械”は例外なく移動時間を短縮するものです。中には移動自体を楽しむため敢えて移動時間を短縮しないものもあるかも知れませんが、それは例外的なものです。だから人間が発明し、発展させてきた鉄道、自動車、飛行機、更にはロケットなどはタイムマシーンではないでしょうか。

 日常的に時間軸を表現するのに移動距離を援用することがあります。「△△まで徒歩で15分ほど…」と表現するとき15分という時間は距離と結びついています。そして過去のある時期までは移動手段は殆ど徒歩に頼っていたのです。そんな時代では例え前方に限っても時間軸を短縮することは困難でした。
 もう50年以上もの遥かな少年時代に今でも嬉しさに震えるような記憶が残っています。小学5年生の頃、初めて自転車に乗ることができました。大人用の自転車ではありませんが子供用でもない大きさでした。サドルに尻を乗せると、やっとペダルに足が届くほどの大きさでした。大人用の自転車を曲乗りのようにして見せびらかし得意になっている同級生もいましたが、私は曲乗りどころか、皆が「ちょんちょん」と称していた、ペダルに片足を乗せて自転車を走らせたあとサドルに跨ることもできませんでした。皆が「ちょんちょんがでけんと自転車に乗れへんさかい、ちょんちょんの練習せなあかん」といったものです。
 左足をペダルに乗せ右足で地面をチョンチョンと蹴って自転車に勢いをつけることが難しく、私は未だにちょんちょんを上手にできません。初めて自転車に乗った時は左足を高い場所に置き、あらかじめ自転車に跨ってからペダルを踏み始めるようにしたのです。

 いろいろな乗り物を利用して生活しているが、初めて自転車に乗れた時ほど嬉しかったことはありません。自分の意思通りに徒歩とは比較にならないような速度で移動できることが驚異的でした。そしてその感動は時間軸を短縮する手段を得た喜びでもあったと思います。
 自転車の次に感激したのは同級生の家にあった「ホンダスーパーカブ」に乗せて貰った時です。当時はバイクの構造など殆ど知りませんでしたが、クラッチがなくアクセル加減だけで力強く加速するのに仰天しました。移動形態は自転車と同じですがペダルを漕がなくても自在に移動できることが驚異的でした。
 その頃、大型バイクなどあまり目にすることがなく四輪乗用車は殆どありませんでした。後年いろいろの免許をとり日常的にクルマを利用する生活が当たり前になりましたが、初めて自転車に乗れた時以上に感動した記憶はありません。
 クルマを利用するようになって、それが身近なタイムマシーンであると実感しています。クルマは明らかに時間軸を短縮するものです。それまで何十日も必要だった移動距離を数時間で移動できるなら間違いなくタイムマシーンです。かつて何十日も掛って船旅をした地球の裏の国へ、数時間で到着できる航空機はタイムマシーンです。現代の私たちは遥か遠くに霞む4次元の世界の雰囲気を日常のものにしているのかも知れません。

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