18 なんでも鑑定団

ていいちOTP

  最近は曜日を意識しなくても生活に支障がない日が多くなっています。日時についても同じように意識しなくても生活にあまり支障がありません。職を離れた後はこういう結構な?環境に慣れてしまいました。
 認知症の検査に曜日や日時を答えさせる項目があるらしいですが、認知症でなくても生活環境が変われば曜日や日時を即座に答えられないでしょう。

 1週間の流れを認識する主なものはテレビの番組です。妻が曜日毎に観る番組がほぼ決まっています。それで私も曜日を再認識できます。妻が不在の日はテレビを見ないことがあり、そんな日は曜日を意識していません。
 土曜日の夕刻近くに、もうかなり長期に亘って続いている興味深い番組があります。視聴者が持ち込んだモノに専門家が値段を付ける番組です。
 日常的には金額を直接表現することは慎みがないとされますが、この番組では鑑定士たちがズバリと金額を確定します。これは価値があると信じたモノを携えて出場した人の悲喜交々を野次馬的に楽しむ番組です。会場で見物する人もテレビを観る人もあまり趣味がよいとはいえませんが庶民の本音をくすぐる番組企画です。

 私には骨董的お宝が全くありません。その為、鑑定士がどのような金額を出しても身につまされることがありません。ときにお金持ちらしい人や尊大な態度の人の目論見が外れると少しスッキリした気分になることがあります。普段隠し持っている妬みが癒されるのです。また素人の出演者が投機的動機で手に入れたものは殆ど目論見が大きく外れています。
 この番組はあまり趣味が良くありませんが、その分面白いのです。でも時々とても不思議な気持ちになることがあります。それは鑑定を依頼する人の気持ちを想像してみるからです。
 突然お金が必要になって大切なお宝を売るので鑑定をして欲しいというなら理解できますが、長い間自分が大切にしてきたモノの価値を客観的な金額で固定したいという思いはどんなものでしょう。

 自分にもお宝があると仮定すれば解らないでもありません。でも自分たちが大切に思えるものは、心豊かに・心安らかになるものである筈です。浜辺の貝殻の一片でも掛け替えのないモノになり得ます。ある日突然とても気に入ったものに出会うかも知れません。それを持っているだけで楽しくなるものです。そういう自分にとって掛け替えのないお宝をなぜ鑑定して欲しいと思うのでしょう。
 例えば美術館で絵画や陶磁器の作品を楽しむときには素直に芸術として楽しむのではないでしょうか。作品を前にして金額を想像しても楽しくありません。この番組になんと僧籍にある人が登場することもあり苦笑してしまいます。

 眺めたり手に取ったり使ったりして心楽しくなるモノ、自分がこよなく愛しんでいるものに金額を付けて外から価値を確定すれば、作品を愛しむ気持ちを退けるでしょう。それは価値の基準を心の内に持たず他人や社会の眼に依存しています。
 さらにいえば、価値観は生活信条の基礎を形作るものですから価値の基準を心の内に持つことができなければ日々の営みさえも自信が持てないということになります。

 先日NHKの昼過ぎの番組にある年配の女性作家が出演していました。兄も有名な詩人であるという作家です。番組の後半で彼女は自分の生き方の指針のようなものを紹介していました。その中の1つに魅かれました。彼女は「『みんながそうしているから』というのはダイのダイのダイの大嫌い」というのです。
 世間には他の人と違っていることを怖れる人が多いようです。我が国古来からの産業である農業は労働集約的な仕事です。何百年も昔なら尚のことです。周囲の人々と一緒でなければ直接生命に関わることもあったと想像できます。それ故、己を主張することが嫌われ、現在まで連綿と継がれてきたのかも知れませんが社会をマクロ的に見れば、それは必ずしも良いことではありません。

 他の人と違う考え方や行動をとると『何故なのですか?』と問われた時答えなければいけません。その際、自分の経験や論理で構築した信条が必要になります。必ずしも論理的でなくとも一応自分の責任で行動や発言をしなければなりません。
 逆に『みんながしていること』に従えば責任は漠然と「みんな」にあり、何となく安心ですが本当は誰も責任を負わないのです。誰も責任を負わない行動や発言はデモクラシーと対極にあるものです。
 できれば価値観を心の内に持ち、自分の心に素直に訊ねてモノや人を好きになったり好きになれなかったり、そういう人でありたいのです。

 美術館で有名な作家の企画展があると出掛けることがよくあります。時間に恵まれた環境を有り難く思えるひと時です。ひとつひとつの作品の前に立ちじっと眺めます。
 作品の良しあしなど分かりませんが、佇んでいると描かれている作品の世界に入り込んで楽しめるのです。美術作品でも小説と同じように感情移入することができると思います。音楽でも同じように奏でられる音の世界に感情移入することができるでしょう。
 ところが権威ある賞をとった作品を前にして、どうしても感情移入できない場合があります。 そういう場合一般には「自分にはこの作品が分からない」と表現したりします。最近は具象よりも抽象に傾いた作品が賞をとるように思えてなりません。賞をとった作品が“分からない”と自分がおかしいのではないかと考えがちですが本当でしょうか。
 分からない作品を前にして煩悶するのは滑稽です。分からない作品は自分にとって価値がありません。名のある鑑定士がどのような金額で価値を固定したとしても、それが自分にとって価値があるのかどうかを考えたいものです。

 昔、自分の感性を大切にすることを教えてくれた放送番組がありました。もう何十年も昔、まだ学生でした。秋深い頃テレビを見ていると絵画を解説する人が解説をしていました。
「抽象画というのはねぇ、気負わなくてもいいんですよ。ネクタイの柄を観るようにして見ればいいんです」と説明しました。それを聞いて目からうろこが落ちました。
 昔、抽象画を前にすると迷いました。どのような見方をするべきかと考えてしまい鑑賞できませんでした。しかしネクタイの柄と同じと納得してからは抽象画を気軽に見られるようになりました。ネクタイの柄なら好きになれないものがあって当然です。
 そのあと具象画であっても同じスタンスで、つまりよそ行きでなく普段着の心で、その作品が心楽しく感じるかどうかを基準にして鑑賞すればいいと考えるようになりました。芸術は心楽しく触れるものです。
 作品が賞をとっていても、作者が有名な人であっても、それらは鑑賞の際には副次的です。お宝も、市場価値を重視するなら心楽しいものではあり得ません。それともお金の価値と心の癒しが綯い交ぜとなって恍惚感をもたらすのでしょうか。そして私の考えなど所詮お宝のない者の僻みなのでしょうか。或いはそうかも知れませんが…。

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