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ていいちOTP

   (2010/01/09 に作成した文章です)

 
近年は各界で年若い人たちの活躍が目立つようになりました。ゴルフ界で世界に名を馳せた石川遼選手そのほか若い人たちの活躍はベテランの人たちにとって脅威ではないかと思うほどです。若い人が実力をつけてくることはその世界のレベルを押し上げるのに必須です。しかし以前は若い人が力をつけてくることは必ずしも歓迎されませんでした。高校生には「高校生らしく……」と求めました。

 精神的にも実際の行動でも半径が急速に拡大する高校生は大人にとって常に危うい存在なのでしょう。高校生らしくとは勉強とスポーツにエネルギーの対象を限定することを意味しています。しかし今も昔も勉強が好きでなく、卒業証書を手にする為に三年間を過ごしたいと考えている人たちにとって『高校生らしく過ごす』ことは非常に困難なことなのです。もちろん勉強が好きな人は一握りの若者だけです。

 デビュー当時その初々しさから〈はにかみ王子〉などとメディアが持ち上げ、ゴルフ界の寵児になった石川遼選手は高校生らしくありません。何しろプロなのですから。彼の活躍は一時期連日のように報じられました。多くの日本人がニュースに驚き、たとえゴルフを知らない人であっても感動を覚える人も数多く、ゴルフが国民的な盛り上がりを見せるかのようでした。まさにゴルフブームです。

 そうした日本社会に生じるブームの最中には感動的にブームに酔っている人たちの数が加速度的に増えていきます。本来一過性のブームであっても次々と新たな興味を引く事実が現れると人々の熱は冷め難くなります。ところが『ブーム』はある日突然冷め始め、急速に萎むことがままあります。ブームは論理でなく多数者の感情に支えられているからです。

 ところで私はゴルフには興味を持ったことがありません。また世の中にブームが起こるとあえて一歩引くたちです。妻に言わせると『面白くない人』なのです。私がゴルフを好きでない理由をいくつか挙げることができます。
 第一に、ゴルフは競技をするのにお金が掛かり過ぎ庶民的とは思えないことです。第二に、ゴルフブームのせいで日本中のあちこちの大切な森が広範囲に人工的な芝生になったことです。第三に、高校生の若者がメディアに持ち上げられたり億という額の賞金を得たりすることは人格形成にとって絶対に益にならず、むしろ危うい経験に違いないと思うからです。そして最後の理由はゴルフがブームになったからです。

 それにしても社会にブームが巻き起こっている時、それに乗らず冷静に一歩下がって様子を観察している少数の人たちにとって自分たちの思いを表明するのは非常に大きな勇気が必要になるのはどうしてでしょう。
 日本では多数に同調しない者に寛容ではありません。ブームに熱くなっている人たちにとっては異端者が目障りなのかも知れません。その為、一歩引いている人は隠れキリシタン?のようにじっとブームが去るのを待つことになります。ここで忘れてはいけないことは少数意見を持つ人たちが口を閉ざせば、社会に一見マイノリティが存在しないかのように見えることです。

 むかし母は「皆がそうしてはるがな」というのが口癖でした。この場合「皆」というのは自分も多数の一員だと主張したい場合に使う言葉で数の概念とは殆ど関係なく複数を意味するだけです。そんなとき母の主張の根拠を追及すると決まって
 「そら、そうやろ。そうに決まってるがな」と論理を無視して主観的に強弁するだけでした。また他の人の主張が気に入らない場合は
 「そんなこと、あらへんやろ。そんな筈ないわ」とこれまた論理無視でした。母親は存命なら95歳になりますが、その年代の女性は概ね論理的ではありません。自分でものを考えて意見表明することは生意気で可愛くない女だとされていたからかも知れません。母の時代は男性でも一部の人を除いて自ら思考するのでなく先輩やお上に従順な方が可愛がられ生き易かったのかも知れません。

 『和をもって尊しとなす』という、争いを避けることを尊重する1500年以上も昔の思想が現在まで広く日本社会に受け入れられてきた理由は、労働集約的な農作業を行う為に都合がよかったからかも知れません。しかし『和』という目的のために、自分でものを考えたり自分の責任で行動したりすることを身勝手な悪い行動だとされはしなかったでしょうか。

 日本では自分でものを考えず一握りの権威ある者に従順であったり、時には信仰と云ってもよいほどに従ったりする人々が少なくありません。そういう人たちにとって自分の行動の結果生じる責任が自分にはないと考えるのも無理ありません。しかし大上段に断ずるなら、そうした日本人のDNAは《互いの思考を尊重しつつ十分話し合って結論を出す》というデモクラシーの精神風土から最も遠いものです。民主主義の基本は各人の自由と、同じ重さの責任を負うという姿勢ですから。

 多数に対して少数の人たちが意見表明する場面では、ある種の怖さを感じるため発言の責任を自覚しないわけにはいきません。それに対して大多数に与していれば責任の自覚は乏しくなるに違いありません。
 近年報道されている〈いじめ問題〉でも同じような精神的構図がある場合が多いのではないでしょうか。いじめ問題は昔からどんな社会でも程度の差こそあれ存在した可能性があります。そしていじめの加害者は多数に与していて自分でものを考えない複数の人たちです。
 権威ある人の話であっても丸呑みせず自分で考え責任を自覚した行動をとることがデモクラシーの鍵です。

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