12 丸坊主

ていいちOTP

  わが国では3月に未曽有の災害を経験しました。東日本大震災です。そして今を生きる誰も経験したことがない巨大津波が東北の太平洋沿岸の幾つもの町を殆ど消滅させてしまいました。

 長期にわたって避難所で暮らすことを余儀なくされている人たちは生活の基盤を根こそぎ失った人も多いでしょう。原子力発電所の安全神話を信じていた日本人に文字どおり“安全”が“神話”というフィクションであることを見せつけました。放射性物質が拡散した影響で広大な土地が今後何十年というスパンで使用できないか或いは以前どおりに使用することができなくなりました。

 こうした被災地域でも夏の高校野球の地区予選が始まったというニュースが流れていました。選手宣誓をやることになっている、ある学校の野球部の主将が右腕を掲げて元気よく、僅かの物怖じも見せず本番のリハーサルをしている場面が放送されていました。
 リハーサルに励んでいる生徒の一途な姿は、被災地の復興を願う人達に勇気を与えるに違いありません。今後人々が一致団結して大きな困難が予想される復興の象徴になるでしょう。
 しかしとるに足らない懸念かも知れませんが、少しだけ別の思いもします。

 リハーサルをしている高校生のスキンヘッドに近い丸刈り頭に容赦ない夏の陽射しが降り注ぎ、玉の汗が噴き出していました。現今ではスキンヘッドに近い坊主頭は特殊で、グループ全員が丸刈りというのは高校の野球部以外には見られません。そんな部員全員が一点を見つめて選手宣誓のセレモニーに参加しています。
 その一途な態度に感動と清々しさを覚えない人はいないでしょう。ただ、この脇目も振らない一途な姿勢がスポーツクラブでない別のグループだと仮定すると少し怖いと感じたのです。

 遥かな昔、高校へ入学するのに坊主頭を強制され、卒業と同時に伝統的?な丸坊主を入学の条件からあっさり外しました。学校は団塊世代の中学生に嫌われず受験してもらうことを期して坊主頭強制をやめたのです。悔しい経験でした。
 坊主頭にするのは心を一つにする象徴だと思われているのでしょうけれど社会的には「○○一丸となって…」とか「△△が一体となって…」は個人の自由な考えや発想を、邪魔なものとして否定する傾向をもっています。それはデモクラシーと対極にあり、科学的・論理的にものを考える者は『調和を乱す』と看做され多数の圧力で封殺される傾向が強いと思うのです。

 その昔、農作業では個人よりもコミュニティを重視するほうが有利だったと想像できます。狭い農地が多く、しかも点在していれば必然的に極度に労働集約的になったからです。
 また企業であっても社員が個々にものを考えて意見表明したりせずトップダウンで生産活動に携わった方が効率がよくコストを低く抑えられます。
 そういう理由で多数意見に異を唱えることを好くないことであると、また多数者の空気を読んで同じようにやるのが褒められたことであると、そういう考え方が身についている人が多いと感じます。
 しかしそうした生活態度はデモクラティックでなく、個人としてもかなり危険なことだと思います。コミュニティの“空気”を優先して生活する態度はボスの意思によって事が運んでいく傾向が強くなります。また従属的存在の多数にとっては人任せで安心し、思考する必要がなくなります。このスタンスは小さなコミュニティにとどまらず自治体や国家のあり方にまで影響するに違いありません。
 個人は考える習慣を失い、為政者には都合のよい社会になります。結果的に多数の力がますます強大になり少数者は怖くて異を唱えることができなくなります。
 精神主義はしばしば根性の有り無しを問題にします。学校のクラブ活動をはじめ、プロスポーツの世界でも『根性』はやる気を鼓舞する言葉になっています。

 その昔は学校のクラブの練習が辛くなって退部したいと申し出ると『根性がない』と看做され暴力まがいのやり方で退部を阻止しました。また現在でも同じことが絶対ないと断言できません。
 あの極端に短い丸刈りで演説口調の絶叫を聴いていると、片方に清々しさを感じる一方で、精神主義的な“根性”の思想が横たわっているようにも見えてしまいます。
 『根性』に代表される精神主義が危ういと考えるのは事象を合理的・科学的に見る態度を失わせるからです。多数に対して異を唱えることを抑えていると次第に考える習慣を失い、長い間には思考を面倒に感じるようになります。

 精神主義は理屈抜きで“信じる”態度です。何事でも“信じる”というのは“考えない”ことが前提になります。家族を信じるのは素敵なことですが個人が属するコニュニティを、社会を、国家を盲目的に“信じる”のは危険でさえあります。それにはファシズムの臭いがします。

 日常的に考え、思ったことを言葉にしていると〈理屈っぽい人間〉という評価を受け、日本では概ね好意的に見られません。社会科学を最も大切にしなければいけない政治家でも理屈っぽい候補者は好感を持たれません。
 私も自分が理屈好きにも拘らず論理が過ぎる人と一緒にいると“しんどい”と感じることがあるくらいです。

 知りたいと思い、はっきりさせたいと思うと、つい突っ込んでしまうのです。物事をはっきりさせず薄いベールに包むような人間関係を好む社会では質問を重ねると、あたかも攻撃のように受け取られます。
 特に大勢がはしゃぐ『祭り』などのイベントの場合には論理的な突っ込みは楽しい雰囲気に綻びを生じさせる可能性が大きくなります。
 日本的な『和の精神』と『科学的・論理的思考』とをどのように調和、融合させればいいか…私たちにとって大切な課題です。
 
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